トーチ作戦とインテリジェンス(4)




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前回までのあらすじ

 

本連載は、1940年から1942年11月8日に実施されたトーチ作戦(連合国軍によるモロッコおよびアルジェリアへの上陸作戦のコードネーム。トーチとは「たいまつ」の意味)までのフランス領北アフリカにおける、米国務省と共同実施された連合国の戦略作戦情報の役割についての考察である。

 

前回は、トーチ作戦開始までに英国が米国やフランスに対してとった行動が、トーチ作戦に与えた影響について考察した。

 

ウィンストン・チャーチルは、後に英国にとって最大の同盟国になるであろう米国に伝達すべき機密情報をもっていることを認識していた。しかし、同時に、チャーチルは、情報源を暴露もしくは情報源を危険にさらさないようにするため、その情報が米国側によって保全されるのを確実にする必要があった。

 

そこで、チャーチルは、英国海軍情報部長ジョン・H・ゴドフリー提督およびその補佐官イアン・フレミング海軍中佐を米国に派遣し、米国の情報機関の現状を慎重に精査させた。

 

ゴドフリーとフレミングの2人はロンドンに帰還し、首相に就任していたチャーチルに対し以下の内容の報告を行った。すなわち、米国は、英国が提供したいと考えている種類の情報を受領し、機密保全する準備ができていない、という趣旨の報告である。

 

そこで、チャーチルは、カナダ出身の億万長者で、暗号名「イントレピッド」で知られるウィリアム・スティーブンソンを米国に派遣した。スティーブンソンの任務は、インテリジェンスを米英間で共有できるように、米国のインテリジェンス機関を組織化することを支援することにあった。スティーブンソンは、ウィリアム・ドノヴァン大佐(CIAの前身であるOSSの創設者)と接触し、さまざまなアドバイスを提供した。

 

英国は、フランス海軍の残存艦隊がドイツもしくはイタリアの手にわたらないように、メルセルケビールのフランス艦隊を攻撃した。しかし、英国海軍によるこの作戦は、政治的にも軍事的にも失敗におわってしまった。軍事的には、英国海軍はフランス艦隊を完全に撃破することに失敗し、政治的には、フランス国民を激怒させ、フランスの輿論を枢軸国よりにする結果を招いてしまったのである。

 

今回は、メルセルケビール海戦がもたらした政治的意味について補足をしたうえで、トーチ作戦開始までのフランスをめぐる国際情勢について話を進めていく。

 

 

メルセルケビール海戦がもたらした英仏関係の断絶とインテリジェンス活動への打撃

 

英国海軍がメルセルケビールでフランス艦隊を攻撃した代償は高くついた。ヴィシー政権は、英国とのあらゆる外交的結びつきを絶ち、フランスおよびその植民地に駐在する英国官吏に国外退去を命じたのである。

 

特に、仏領北アフリカに駐留していたフランス海軍関係者に対する英国の印象は極めて悪化してしまった。ヴィシー政権に米国代理大使として派遣されたばかりのロバート・マーフィーは以下のように述べている。

 

「北アフリカにいるフランス海軍士官たちに与えた影響は破滅的なものがあり、この攻撃は、以後、北アフリカにおいてわれわれに終わりのない困難を惹起させたのである」。

 

さらに、メルセルケビール海戦は英国のインテリジェンス活動にも打撃を与えた。メルセルケビールでフランス艦隊の撃破を試みた後、英国政府がヴィシー政権との外交関係を絶ったため、フランスおよびその植民地にも念入りに情報網を展開していた英国のインテリジェンス機関は、フランス領およびその植民地から要員を退去させなければならなくなったのである。1941年7月、英国は、失われた情報収集能力を補うために、スロウィコスキー少佐率いるポーランド人主導の秘密情情報活動を北アフリカで開始させた。

 

英国は、枢軸軍の猛攻を受けている英陸軍第8軍に軍需物資を海路補給することを確実なものとし、地中海に点在する島嶼に展開中の守備隊への補給路を確保するために、情報収集努力の大部分を地中海地域に集中させた。そして、このことが、米国が軍隊を海外に投入する準備ができるずっと以前から、チャーチルをしてルーズヴェルト大統領にフランス領北アフリカでの軍事活動を催促させた動機の1つとなったのである。

 

 

フランスをめぐる情勢 〜分割されたフランス領〜

 

1940年6月22日、フランスはナチス・ドイツに休戦を申し込み、アドルフ・ヒトラーと独仏休戦協定を締結した。ヒトラーは、フランスのオーヴェルニュ地方にある有名な温泉保養地ヴィシーに拠点を置く新しいフランス政府の創設を認めた。

 

その5日前の6月17日、ヴェルダンの戦いで活躍した第一次世界大戦の英雄アンリ・フィリップ・ペタン元帥が、フランス第87代首相に就任していた。ペタンは、これ以上の戦死傷者を出すのを防止するためにヒトラーに対し休戦を申し込んだのである。フランスは、第一次世界大戦で恐るべき数の戦死傷者を出して間もなかったため、それ以上の人的損害に耐えられる余裕がなかったのである。

 

独仏休戦協定が1940年6月25日に発効して以降、ドイツ軍部隊はスペイン国境近くのフランス領から撤退を開始し、ヴィシー政権はフランス大陸の約三分の一を統治するようになった。独仏休戦協定により、フランス領は、アルザス・ロレーヌのようにドイツへ割譲された地域と、フランスの主権が認められたもののドイツ軍が占領し軍政をしく「占領地域」、ヴィシー政府が主権と施政権を有する「自由地域」などに分割されたのである。
すなわち、ヴィシー政権が統治できたのは自由地域と海外植民地だけであった。なお、占領地域の占領コストはヴィシー政権側が負担することとなっており、1940年の額は、一日あたり4億フランという巨大な額であった。

 

なぜ、ドイツはフランス全土を占領し、軍政をしかなかったのであろうか。その理由は、経済的コストにある。もし、ドイツがフランス全土を占領した場合、フランスの海外植民地の行政経費や植民地に駐屯する部隊の維持費が重い負担となる可能性があったため、親独政権であるヴィシー政権の存在はドイツにとって好都合だったのである。

 

 

2つに分裂したフランスの政治指導者 〜嫌われ無視され続けた男・ドゴール〜

 

分裂したのはフランス領土だけではなかった。1940年の夏の終わりまでに、フランスの軍事・政治両分野の指導者たちもシャルル・ドゴール率いる自由フランス支持者とペタン率いるヴィシー政権支持者とに分裂したのである。

 

ドゴールは、英国との外交関係を維持し、イングランドに自由フランスの本拠地を置いた。しかし、ドゴールには弱点があった。ドゴールは、英国国外のフランス人政治指導者やフランス人将校にとって知名度が低かったのである。また、彼の名を知っていても彼を嫌う政治指導者や将校も多かった。ドゴールをよく知らなかったり、彼を嫌う人々は、ドゴールがなぜペタン元帥に反抗しているのか理解できず、ドゴールを無視し続け、自由フランスへのいかなる支援も拒否し続けた。

 

ルーズヴェルト大統領もまた最初の頃はドゴールを信頼しなかった人物の1人である。チャーチル首相との合意に基づき、ルーズヴェルトは、フランス領北アフリカへの侵攻作戦が開始されるまで、トーチ作戦の作戦計画をドゴールに対して秘密にしておくように、作戦立案者たちに指示していた。

 

 

連合国によるフランス領北アフリカ侵攻計画とその問題点

 

ペタン元帥が国家元首を務めるヴィシー政権は、米国との外交関係を維持したが、ナチス・ドイツの傀儡国家であることには変わりなかった。既述したように、ヴィシー政権は一部を除く他の大部分の海外植民地を統治し続けたが、行政権の大部分は現地の植民地政府に分権化された結果、現地の植民地政府は半独立的な自治権を有するに至った。

 

1941年末に、米国と英国の指導者たちは、連合国側がフランス領モロッコもしくはフランス領ナイジェリアに対して侵攻した場合、フランスがドイツとの休戦協定を破棄し、連合国側に立ってドイツに宣戦布告するかもしれないとの希望を持ち始めた。このような希望的観測が、連合国をして、フランス領北アフリカやフランス領内のレジスタンスを支援させる決断をもたらした。

 

しかし、連合国の計画にはフランス人の反英感情という問題点も存在した。米国の軍事史家マーティン・ブルーメンソンは、この問題を次のように書いている。

 

「当時、北アフリカに侵攻することが想定された国は英国のみであったが、英仏休戦協定締結以来、旧同盟国である英国に対するフランス人の感情は、急激に悪化した。多くのフランス人は、独仏戦の敗戦の原因を、英国が欧州大陸に空軍機を派遣することを渋ったことにあると考えていたのである。
さらに多くのフランス人は、英国軍が自国領へ撤退し、英国政府が降伏を拒否したことに対してもこころよく思っていなかった。フランス人は、英国がフランス艦隊をドイツ側の手にわたらないようにするために、フランス艦隊に対し攻撃をしかけたことに対しても憤慨していた。フランス人は、英国がロンドンから枢軸国との戦争を継続しようとしているドゴールを支援していることを激怒していた」。

 

 

フランス人の複雑な感情 〜独仏休戦協定は正しい決断である〜

 

フランス人は、内心ではやるべきことをやって敗北したと考えていた。多くのフランス人の考えでは、ペタン元帥が、国家としてのフランスが生存し、ドイツの支配を打倒できるほど強力になるまでドイツの支配下で国家の独立を守るために、独仏休戦協定を締結したことは正しい決断であった。こうした考えは、特にフランス軍の将校団の中で強かった。

 

そのような考えを持たないフランス軍将校は、ドイツに対し反撃に出ることを望んでいたが、ドイツに抵抗するにはフランスの軍事的能力があまりにも弱いことも理解していた。フランス領北アフリカの将校の大部分は、彼らが託された植民地を防衛し、フランスが全土の統治権を回復する時が来るまで待つことを望んでいた。

 

そのような考えを持つフランス領北アフリカの将校たちは、1852年以来のフランス最古の同盟国であった英国を信頼していなかった。というのも、英国は、将校たちの支持が低いドゴールを支援しており、メルセルケビールにおいて挑発行為すら行っていないフランス艦隊を攻撃したからである。

 

したがって、必然的にフランスの選択肢は限られていた。すなわち、1941年12月まで中立国であった米国に期待するほかなかったのである。

 

次号では、トーチ作戦に関係するフランスの政治的キーパーソンについて説明したい。

 

 

(以下次号)

 

 

(長南政義)

関連ページ

第1回
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戦史研究家・長南政義さんの作品「戦史に見るインテリジェンスの失敗と成功」シリーズ第3弾 「トーチ作戦とインテリジェンス」(2) メールマガジン「軍事情報」で連載。
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第31回
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第32回
戦史研究家・長南政義さんの作品「戦史に見るインテリジェンスの失敗と成功」シリーズ第3弾 「トーチ作戦とインテリジェンス」(32) メールマガジン「軍事情報」で連載。
最終回
戦史研究家・長南政義さんの作品「戦史に見るインテリジェンスの失敗と成功」シリーズ第3弾 「トーチ作戦とインテリジェンス」(最終回) メールマガジン「軍事情報」で連載。