朝鮮戦争における「情報の失敗」 〜1950年11月、国連軍の敗北〜(27)




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これまでのあらすじ

 

簡単にここ数回の連載の内容を振り返ってみましょう。

 

「人的・政治的要因」の問題に関し、ウィロビーの個性と前歴が、
彼の情報評価の手法やマッカーサーとの個人的関係にどのように
影響しているのだろうか?という視点から分析を進めてきました。

 

特に、前回および前々回と、ウィロビーのバックグラウンドが
彼の考え方に大きな影響を与えていたという観点から、ウィロビー
の経歴についてやや詳しく見てきました。その過程で、ウィロビー
の履歴上、注目すべき点として下記の諸点を指摘しました。

 

1、主張の真偽は定かではないものの、ウィロビー自身の主張に
よれば、ウィロビーはツェッペヴァイデンバッハ男爵の息子で
あったことで、生誕地のドイツにおいて十代を過ごす過程で
エリート主義的なメンタリティーを発展させた。そして、アメリカ
に移住する前のドイツでのこの経験が、後年のウィロビーの軍歴
を通じて――そして退役後も――彼の心中でくすぶり続ける
反共産主義熱へと発展することとなった保守主義的政治観の基礎を
形成した。

 

2、戦間期にウィロビーが見聞した知見が、ウィロビーに権威主義的
リーダーシップを高く評価させることとなった。たとえば、駐在武官
として中米各国に派遣されたウィロビーが現地で目にしたベネズエラ
のゴメス政権に代表される権威主義体制や、ウィロビーが指揮幕僚
大学教官時代に研究したスペインのフランコ総統の手法は、強権的で
集権的な指導者の能力の高さをウィロビーに強く印象付けた。
そして、このことが、マッカーサーの権威主義的リーダーシップを
ウィロビーが評価する下地になった。

 

3、第二次世界大戦においてドイツとの戦争がアメリカの大戦略上
メインの戦略目標とされて、対日戦争が二次的とされた結果、
マッカーサーが日本との戦争において要求していた戦争資源の多く
が欧州戦域に投入されたため、マッカーサーは戦争初期に苦戦を
強いられた。この世界大戦中の経験により、日本占領の期間を通じて、
大戦中太平洋戦域で従軍した経験者が多数を占める極東軍司令部内部
のマッカーサーおよび幕僚たちが、世界大戦を欧州戦域で戦った
将校たちを「脅威」と認識させ、欧州戦域従軍者からの意見を排斥する
結果を招いた。

 

4、日本降伏直後から朝鮮戦争勃発までの期間、ウィロビーは
極東軍司令部参謀第二部戦史を編纂することを企図したが、戦史の
性格が第二部という組織の歴史からマッカーサーの業績を讃える
マッカーサーの個人伝へと変化した。その結果、この戦史は国防総省
から刊行されずに、ウィロビーが著者となり『マッカーサー 
1941年〜1951年』(MacArthur 1941-1951)というタイトル
で一般の出版社から刊行された。

 

知られざる先覚者にして名外交官ジョン・ムチオの警告

 

駐韓米国大使ジョン・ジョセフ・ムチオ(190〜1989)は
ウィロビーによるマッカーサー伝の編纂プロジェクトを情報幕僚と
しての主たる任務からの大きな逸脱だとみなしていた。これを象徴
するかのように、情報幕僚としてのウィロビーのパフォーマンスに
ついて質問されたムチオは、マッカーサー伝の編纂は「朝鮮で進行
中のことをしっかりと把握する以上に、ウィロビーの中で大切な
こととなっている」と述べている。皮肉な言い方になってしまうが、
マッカーサー伝説を強化・浸透させたいというウィロビーの熱意とは
別に、彼が執筆した『マッカーサー 1941年〜1951年』
(MacArthur 1941-1951)はかなり多額の印税をウィロビーに
もたらす結果ともなった。

 

ジョン・ムチオ、この名前を聞いた記憶がある読者もいらっしゃる
かもしれない。2006年、韓国政府が、朝鮮戦争当時、米軍が
警告射撃をしても接近してくる韓国人避難民を射撃する決定をした
内容のジョン・ムチオ書簡について、ブッシュ政権(当時)に事実
確認を求めたことで、一時、日本の新聞にもその名前が登場した
からだ。

 

その名字からもうかがわれるようにムチオはイタリアからの移民で、
幼少期に両親と共にロードアイランド州に移住している。
ジョージ・ワシントン大学で国際関係論の修士号を取得したのち、
1921年に国務省に入省。以後、ワイマール共和国下のハンブルク、
英領香港、ボリビア、パナマ、キューバといった地で駐在した後、
1949年から1952年まで初代駐韓大使を務めた。駐韓大使と
してのムチオは偉大な足跡を残している。

 

1950年1月、時の国務長官ディーン・アチソンが、アリュー
シャン―日本―琉球列島―フィリピンを、米国が重大な利害を持ち
「完全な行動の自由」を有する「不後退防衛ライン」であり、
このラインに対する軍事侵略に対し米国は断固として反撃するという
有名なアチソン演説を行った。この声明には、台湾や朝鮮半島などの
地域に対する明確な意思表示が含まれていなかったことから、
アチソン演説は朝鮮戦争の誘因の1つとなったとされている。

 

アチソンのこの姿勢とは対照的に、ムチオは、1950年6月初旬、
連邦議会で証言を行い、38度線上に対する共産主義勢力からの
軍事的脅威が差し迫った状態にあると警告を行うと共に、この年の
1月に米韓相互防衛支援協定に基づき米国が1000万ドルの軍事
援助を行うことになっていたが、ムチオは韓国政府に対する支援の
増額を要求した。ムチオの証言からは彼の先見の明の確かさを
うかがうことができる。

 

1950年6月25日朝鮮戦争が勃発すると、ムチオはワシントンに
電話連絡し、周囲の楽観論を排するかのように北朝鮮軍が韓国に
対する「全面的攻撃」を開始したと報告し、いち早く米国民の避難
活動を指揮した。ムチオは、戦争中も韓国政府から情報を引出し、
貴重な情勢報告をワシントンに送っている。また、ムチオは、韓国
大統領李承晩の独裁的統治手法を批判し、国家安全保障に対する重大
な脅威であるとの報告をワシントンに対し行っている。のちに李承晩
は、その独裁主義的統治手法は仇となり馬山事件を契機として国内で
騒乱が起った結果、ハワイに亡命してその政治生命を断たれることと
なるが、朝鮮戦争の勃発をいち早く嗅ぎ付ける嗅覚といい、自国民
避難指揮といい、李承晩批判といい、ムチオは知性と行動力とを
兼ね備えた名外交官であることは疑いないようである。

 

ウィロビーに関して、ムチオは、ウィロビーがマッカーサーの朝鮮
戦域に対する認識に非常に大きな影響力を有していたと述べている。
さらに、ムチオは、ウィロビーがマッカーサーを「囲い込んで」
しまったため、ムチオが最良の決定を下すために必要な情報を収集
するのを妨害する結果となっていたことを指摘している。

 

このウィロビーがマッカーサーに対して持った大きな影響力の結果、
悲劇の月である1950年11月までにマッカーサーは「もはや情勢
に直接触れることが出来ない」事態が生じていた。
つまり、ウィロビーはマッカーサーからの厚い信頼を得たことにより、
マッカーサーに入る情報を自身の都合の良いようにコントロール
することが可能となったのである。先に引用したムチオのコメント
は、マッカーサーの意思決定に対するウィロビーが行う情報評価の
重要性が危険な水準にまで高まっていたことを証明している。

 

「作られた伝説」〜鴨緑江に架かる橋を爆撃していれば戦況は有利に展開できた〜

 

マッカーサー解任と共に自身も退役した際に、ウィロビーは、
トルーマン政権が、マッカーサーの要求にもかかわらず、鴨緑江に
かかる橋梁を爆撃する権限を極東軍司令官に付与することを拒絶した
ことに関し疑問を呈している。

 

朝鮮戦争にまつわる有名な「IF」がある。人民義勇軍の北朝鮮領内
への浸透を空軍力で阻止することを妨害したのはトルーマンである
とのウィロビーによるトルーマン政権批判に基礎を置くもので、
このときトルーマン政権がマッカーサーに鴨緑江にかかる橋梁に
対する爆撃を許可していれば国連軍はもっと戦いを有利に展開できた
のではないか?長津湖の苦戦も防止できたのではないか?というもの
である。

 

しかし、このウィロビーによるトルーマン政権批判は、完全なる
自己弁明であり「作られた伝説」である。史実は、ウィロビーや
マッカーサーの主張と大きく異なり、マッカーサーが鴨緑江に
かけられた橋梁に対する爆撃の許可を求めたのは、人民義勇軍が
その部隊の大部分を朝鮮に侵入してから「約3週間後」のことであり、
この頃には橋梁の爆撃に成功しても大勢に影響はなかったのである。
このことは、この連載の初期に引用した1950年10月25日
から11月2日にかけて国連軍の捕虜となった人民解放軍兵士に
対する複数の尋問報告書からも明らかである。

 

朝鮮戦争後に書かれたウィロビーの著作をみると、1950年10月
下旬に中国側部隊と最初に交戦した後に、中国による朝鮮戦争介入
に対するマッカーサーの懸念が、日々大きくなっていったと書かれて
いる。それだけではなく、ウィロビーは、以下のように述べること
で、マッカーサーの鴨緑江へ向かう最後の攻勢計画を失敗するよう
に運命づけた米国の政治指導者たちの先見性の欠如を批難している。

 

「もし、ワシントンや国連の高官たちが高まりつつあった中国の
脅威を真剣に受け止めていたならば、高官たちは北朝鮮領内のどの
地点においてでもわが軍部隊の進撃を制止することができたであろ
うが、彼らはそれをしなかった。制止するかわりに、彼らは、
希望的観測というアヘンのような鎮静剤と近視眼的な事なかれ主義
を選んだのである」

 

しかしながら、これまでの連載で指摘してきたように、朝鮮半島の
情報や情勢分析を排他的に収集していたのはウィロビー率いる
極東軍司令部参謀第二部であった。ウィロビーの筆による文学性に
あふれたマッカーサー弁護からは、ワシントンの意思決定者たちが、
極東軍司令部参謀第二部の情勢報告書およびマッカーサーからの進言
に依拠して意思決定を行っていたというマッカーサーやウィロビー
にとって都合の悪い事実は意図的に除去されているのである。

 

一般に、歴史を書く際には、ある特定の史料にのみ依存しては
ならず、厳密な史料批判やほかの史料との比較が必要であるといわれ
ているが、ウィロビーの手によるマッカーサーの伝記や回想録が
信憑性に欠けており、使用するに際して十分な注意が必要であると
酷評されている理由はこの点にあるのだ。

 

 

(以下次号)

 

 

(長南政義)

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第35回
【戦史に見るインテリジェンス活用の失敗と成功(その2)】  「朝鮮戦争における「情報の失敗」 〜1950年11月、国連軍の敗北〜」(35)
最終回
【戦史に見るインテリジェンス活用の失敗と成功(その2)】  「朝鮮戦争における「情報の失敗」 〜1950年11月、国連軍の敗北〜」(最終回)