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[日本軍] 榴弾砲・カノン砲 WW2 Japanese Howitzer&Cannon

time 2019/03/02

[日本軍] 榴弾砲・カノン砲 WW2 Japanese Howitzer&Cannon

日本ニュースより、大日本帝国陸海軍で使用されていた榴弾砲・カノン砲の射撃、運用シーンを抜粋しました。各シーンは日本ニュースの号数順に並んでいます。映像から九二式十糎加農、三八式十五糎榴弾砲、四年式十五糎榴弾砲、九六式十五糎榴弾砲、八九式十五糎加農が確認できます。最初の重砲はおそらく鹵獲品だと思います。5:45の沿岸砲は詳細不明です。

 九六式十五糎榴弾砲は、1930年代中期に開発・採用され、支那事変(日中戦争)後半・ノモンハン事件・太平洋戦争における帝国陸軍の主力重榴弾砲(野戦重砲)として、主に軍司令部直轄の野戦重砲兵が運用した。太平洋戦争では、南方作戦におけるフィリピン作戦の第二次バターン半島・コレヒドール島砲撃戦に本砲24門を擁する野戦重砲兵第1連隊が投入され、集成重砲兵部隊たる第14軍第1砲兵隊隷下として従軍した。1942年4月14日よりバターン半島南端の砲列から海を挟んで約10,000m先のコレヒドール島アメリカ極東陸軍要塞やフライレ島などに対し連日砲撃を実施し、対するアメリカ軍の30cmクラス大口径要塞砲(海岸砲)との間で砲撃戦が行われたが、同月19日に24cm砲弾のコレヒドール要塞弾薬庫への命中、36cm砲の撃破などによりこの砲撃戦に勝利、フィリピン作戦の勝利に寄与した。
 以降、本砲はガダルカナル島の戦いなど各戦線で野戦重砲兵連隊の主力火砲として使用され、巧みに隠蔽された砲陣地と不規則的な攻撃により散発的な戦果をあげ、海兵隊に「ピストルピート」のあだ名をつけられた。野戦重砲兵と同じ軍砲兵たる「独立重砲兵」が運用する八九式十五糎加農とともに、帝国陸軍の主力重砲として一貫して運用された。(wikiより抜粋)

 八九式十五糎加農は、1929年10月に制式制定された。駐退復座機を備え、口径149.1mm・砲身長5,963mm(40口径)、三層々箍砲身で腔線は右方向に傾度7度で旋回、楔状腔綫が40条切られ、発射速度は毎分約1発で、砲弾には弾丸重量40.60kg・威力半径60mの九三式榴弾および、弾丸重量40.20kg・威力半径40mの九三式尖鋭弾を、装薬には射距離によって一号装薬と二号装薬を使い分けた。最大射程は尖鋭弾と一号装薬を使用し18,100m。方向射界は広く左右40°であり、砲の架尾を移動することなく広範囲の射撃正面幅をもつ。移動には本砲を砲身車(砲身を搭載)と砲架車(揺架や陣地設営材料等を搭載)に分け前車を付し、それぞれ九二式八屯牽引車(砲兵トラクター)により、常速度8km/h(急速度12km/h)で牽引された。
 太平洋戦争では、連合軍に対する日本軍の貴重な大火力として各方面に投入されたが、次第に戦況の悪化により、攻城戦向きで機動性が低い重加農の運用自体は難しくなっていった。しかし、沖縄戦において本砲8門を擁する第32軍(司令官・牛島満中将)第5砲兵司令部隷下の独立重砲兵第100大隊は、洞窟を利用し陣地を構築したうえでそこに砲を隠匿、加農の弾道の低伸性や長射程を生かした神出鬼没の不規則砲撃を行い、また首里からアメリカ軍制圧下の嘉手納飛行場に対しても砲撃を行うなど玉砕に至るまで2ヶ月に渡り活躍した。なお、同戦いでは同じく第32軍砲兵である、野戦重砲兵第1連隊と第23連隊が運用する九六式十五糎榴弾砲も活躍しており、特に6月19日には第1連隊第2大隊の砲撃により、沖縄方面アメリカ陸軍最高指揮官(司令官)であるサイモン・B・バックナー・ジュニア中将を殺害する大戦果を残している。(wikiより抜粋)

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