潜水医学実験隊(5)

前回は飽和潜水員になるまでの課程
などについてご紹介しました。今回は
飽和潜水が人間の身体にどのような
影響を与えるかという話からです。
飽和潜水については第1回で説明しましたが、
もう一度おさらいしておきます。普通は
大気圧(1気圧)で空気(環境ガス)を呼吸
している人間の体は、潜水して加圧されると、
空気中に含まれている窒素などの不活性ガス
が体内で溶け始めます。このガスが気化して
気泡となり血管を閉塞すると減圧症を招く
恐れがあるため、通常は深く潜ろうとすれば
するほど減圧に要する時間は長くなります。
その一方で、ある深度にそのまま滞在し続けた
場合は、それ以上は不活性ガスが溶け込まない、
つまり飽和状態となります。この状態を利用して
潜水するのが飽和潜水です。体がいったん飽和
状態に達すれば、その後どれだけ長時間海底に
滞在しようと、体内の不活性ガスの量がそれ以上
増えることはないので、減圧時間は変わりません。
これが飽和潜水の最大の利点です。より深い
深度での潜水作業が長時間可能となるだけでなく、
大気圧復帰の減圧が一度で済むので通常の潜水
より潜水効率もよくなります。
いいことづくめに聞こえる飽和潜水ですが、「潜水
医学実験隊」という部隊名称からも想像がつくように、
人間の体にもさまざまな影響を与えます。そういった
部分を研究するのも部隊の役目なのです。
DDCに乗り込んで飽和潜水を行う際、人間だけ
でなくおのずと食料も加圧されます。すると、開封
していないカップ麺は、そのままの形でサイズが
1/4ほどに縮小してしまいます。メロンは透明に、
ホイップは液体にといった変化もあります。不用意に
飴を食べると、飴玉の中の気泡が口の中で破裂して
大けがにつながる恐れもあります。また、飽和潜水員
の味覚や食感も地上にいるときとは異なり、喉に
詰まらなくて食べやすいお茶漬けなどさらさらした
食べ物が好まれます。
飽和潜水前には十分な健康管理が必要とされ、
潜水員たちもその点は徹底しています。鼻が詰まった
状態での潜水は極めて危険ですし、飽和潜水中
に咳をすると大気圧と衝撃が異なり、胸郭にもろに
響いて大変痛いのだとか。また、水中で二酸化炭素
が出てしまうため、飽和潜水前は喫煙者も煙草を
控えます。ちなみにDDCでは声もヘリウムガスを
吸ったときのように甲高くなるそうです。
さて、飽和潜水がスタートすると、飽和潜水員は
約1か月もの間DDCに拘束されます。そのため、
家族が会いに来てくれることもあります。窓越しに
お互いの姿を確認することができますから、
飽和潜水員にとっても大きな励みになるでしょう。
差し入れも持って来てくれるそうですが、それは
DDCの中にいる家族へではなく、DDCを管理して
いる隊員たちへのもの。「主人をよろしくお願いします」
というわけです。
潜水医学実験隊でもっとも脚光を浴びるのは
飽和潜水員です。けれど6名の飽和潜水員が
1か月間DDCで過ごすためには、その何倍もの
隊員の支えが不可欠です。戦闘機がパイロット
ひとりの力では飛ばせないように、飽和潜水も
潜水員の力だけでは決してなしえません。
差し入れが夫にではなく、夫をサポートしてくれて
いる隊員たちへというのも、よくわかります。
次回は潜水医学実験隊の最終回です。
(以下次号)
(わたなべ・ようこ)
(平成26年(2014年)8月7日配信)