防衛装備庁(3)

渡邉陽子さんのデビュー作

オリンピックと自衛隊

1964東京五輪は、自衛隊の支援なしに成功しなかった!
2020東京五輪も、自衛隊は同じ役割を求められることになる
知られざる自衛隊の苦難と栄光の歴史が、ここに明らかに!!
オリンピックに熱い思いを抱く、すべての人に捧げます。

自衛隊家族会発行「おやばと」、「隊友」160715号、 「月刊モデルグラフィックス」2016/8号「月刊丸」2016/8号160712「防人の道 NEXT」「歴史群像」8月号(学研)160701 桜林美佐の国防ニュース最前線、「月刊世界の艦船」2016/9号、160809 政治学者・岩田温の備忘録 で取り上げられました。





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防衛装備庁(3)

 

 

「丸」6月号に「自衛隊の営業部隊 地方協力本部」が掲載されました

自衛隊の真の敵はあの国でもかの国でもなく、少子高齢化というのは過言ではありません。募集を担う地本は、国防の未来を託されているのです。また、50代のまだまだ働き盛りの年齢で定年退職を迎える自衛官の、第2の人生をサポートするのも地本の役目。すごいです地本。

「PANZER」6月号に「神は賽子を振らない 第32代陸上幕僚長火箱芳文の半生」第26回が掲載されました。

2011年3月11日、東北地方でM9.0の巨大地震が発生。19日までに救助された被災者総数約2万7000名のうち約2万名を自衛隊が救助(約1万5000名は陸自による)。発災後72時間以内に自衛隊が救出した人は1万2351名でした。阪神淡路大震災での救助実績が警察3495名、消防1387名、自衛隊165名だったことを考えれば、初動が「命」に直結していることを改めて思い知らされます。その背景には火箱氏の処分覚悟の決断がありました。

「正論」6月号に「われらの女性自衛官」第3回が掲載されました。

今回は即応予備自衛官1期生。現役の自衛官時代よりはるかに長い時間、即応予備自として「いざ」に備えてきました。そして東日本大震災では自宅が半壊状態でありながら、招集に迷うことなく応じました。

 

 

ごあいさつ

こんばんは。渡邉陽子です。
2021年3月でフリーランスになって丸20年を迎え、21年目に突中しました。コロナ禍でおめでたい気分皆無の日々なので、「あ、20年経ってる」と、今日そのことに気づきました。フリーになって最初の2年は実家にいたので仕事があろうがなかろうが衣食住には困らず、結局親に依存していたと思います。家を出てからは山あり谷ありすぎて……
フリーになるのもライターになるのも簡単、それを継続することの難しさを実感し続けた20年でした。そして21年目の今年も綱渡り。コロナに感染していないのにコロナに殺されないよう、ありったけの力で道を啓開していきたいと思っています。

 

 

防衛装備庁(3)

 

防衛装備庁約1800名のうち、技術研究本部出身者は約1100名を占めています。そこで、技術研究本部(以下、技本)がどのような役割を担っていたかについても触れておきます。

 

技本は防衛省の特別の機関であり、陸海空自衛隊が使用する車両・船舶・航空機・誘導武器や統合運用に資する各種装備品から防護服に至るまで、幅広い分野の研究開発を一元的に行なっていました。
1952年に保安庁技術研究所として発足、その後何度か所在地と名称の変更を重ね、2007年に技術研究本部という名称になりました。職員は指定職、研究職の技官、行政職の事務官、陸海空自衛官で構成され、技官が約半数、事務官と自衛官が約4分の1ずつという比率でした。

 

開発に関する業務は、装備体系別に陸上・船舶・航空機及び誘導武器担当の4技術開発官が行ない、その基礎となる研究に関する業務は、装備体系別の4研究所及び先進技術センターが実施していました。
研究所や先進技術センター、試作品などの試験を行なう4試験場は防衛装備庁へそのまま移行、開発業務は技術戦略部に移管されました。

 

研究所や試験場がすべて全国に点在していることを考えると、技本の職員数は決して多くありませんでした。
陸自でいえば連隊規模程度の職員数でさまざまな装備品の創製に関わっていたわけですから、1人ひとりが担っている業務に対する責任は重いものです。

 

技本の使命は『信頼される装備品の創製と国の安全保障への貢献』でした。それについて、技術研究本部長だったときの渡辺秀明氏は次のように語っています。

 

「研究開発は技本のミッションだとよく言われますが、あくまでも手段であり、研究開発を通じてユーザーである陸海空自衛隊から信頼される装備品を創製するというのが本当の目的です。国の安全保障への貢献については、装備品の創製を通じてという意味合いと、なにかあったときはわれわれ自身が動いて安全保障に貢献するという意味合いがあります」

 

実際、東日本大震災の際に、技本は福島第一原発の上空から赤外線計測カメラを用いた放射温度計測を行なっています。もちろん前例のない、技本史上初のミッションでした。
事故発生以来、原子炉や燃料プールの温度計測系は計測不能となっており、放水等による冷却効果の有無を得る手段がありませんでした。唯一、技本がNECに委託して開発中の高性能サーモグラフィー装置ならば建屋の表面温度を計測できる可能性があるということで、白羽の矢が立ったのです。

 

第1ヘリコプター団のヘリCH−47JA(通称チヌーク)は3月17日に福島第一原発3号機上空からの放水を実施していました。そこで計測にも同部隊のチヌークを利用することになりました。
チヌークの床には被ばくを最小限に抑えるためタングステンシートが敷かれ、サーモグラフィーも遠隔操作できるようにしました。陸自隊員におけるこのチヌークの改造は、技本の職員たちが「もうできたの!?」と驚くほどの速さだったそうです。
赤外線カメラを扱うには専門知識が必要だったため、すべての計測に技本の技官も4人1組のチームを組んで同乗する必要がありました。しかし、危険な原発上空には災害派遣に従事している自衛官でなければ行けません。そこでチヌークに乗り込む技本の職員は一時的に陸自に転科し、陸自の命令を受けられる形を取りました。技本の職員たちは一時的に陸上自衛官になり、命をかけて原発上空へ赴いたのです。まさに「われわれ自身が動いて安全保障に貢献する」を実践したのでした。

 

2011年3月19日に最初の計測を実施。建屋表面温度は100℃以下なことがわかり、この日から「キリン」による地上からの大放水も予定されていたことからも、最低最悪の事態は回避されるのではないかという希望が生まれたのでした。当時の陸上幕僚長である火箱芳文氏は、この日のことを振り返って「技本の計測のおかげで、初めて原発に対して『なんとか持ちこたえてくれるのではないか』と思った」と語っています。

 

 

 

(つづく)

 

 

(わたなべ・ようこ)

 

 

 

 

(令和三年(西暦2021年)5月20日配信)

 



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