神は賽子を振らない 第32代陸上幕僚長火箱芳文の半生(19)

3月15日、陸自ヘリによる福島第一原発への放水の検討が始まって間もなくのことだ。
防衛省地下にある陸幕指揮所で放水作戦の準備を進めている火箱のところに、突然、及川防衛大臣補佐官が経産省官僚で補佐官付の戒能(かいの)氏を連れてやって来た。そして「この男の話を聞いてください」と言う。
彼は驚くべきことを言った。
「陸幕長。2号機にホウ酸を撒いてください。今いちばん危ないのは2号機です」
「え? 4号機や3号機じゃなくて2号機? 水じゃなくてホウ酸?」
この段階では、放水は4号機の燃料プールを最優先する方向で準備が進んでいたし、公式の会議ではない場での申し出に火箱は戸惑った。相手が切実な様子で、しかもチェルノブイリ原発事故を研究しているスペシャリストだったからだ。
しかも恐ろしいことを畳みかけるように言われ、あまりの衝撃の内容に言葉を失った。
「2号機はすでにメルトダウンをしていると思います(実際、この時点ですでにメルトダウンしていた)。場合によっては放射能が噴き上げて、圧力容器や格納容器を溶かすメルトスルー状態になっているかもしれません」
ホウ酸は水素・酸素・ホウ素の化合物だ。ホウ素は中性子を吸収しやすいので、ホウ酸をまけば核分裂反応は止まる。
しかしチェルノブイリでメルトダウンした4号炉が、ホウ酸や石灰など5000tをまいて放射線放出量を下げたうえで外側をセメントで固めた「石棺」のように、ホウ酸をまくことは廃炉を意味する。つまり、原発を抑え込む最後の手段ということだ。
石棺化については官邸から要請はまだない。しかし非公式ながらこのような依頼があった以上、最低最悪の事態に備えをしておかねばならないと考えた。
ホウ酸は水に混ぜたりせず、粉状のまま直接2号機にまく必要があるという。しかし2号機は爆発したわけではないので屋根がある。つまりこれから予定されている放水のような建屋上空からのアプローチでは、ホウ酸が建屋内部にある原発の心臓部にまで届かない。
空自が撮影した2号機の航空写真を確認したところ、屋上に小さなひび割れが見えた。このわずかな隙間から、建屋内部へホウ酸を投入できるかもしれない。
ヘリが建屋の真上でホバリングするためには、風下から入って機体を風上に向けると安定するが、それでは一定の高さまで真っすぐ立ち上り、そこから線香の煙のように風下に流れている放射能をもろに浴びてしまう恐れがあるので、風上から入ったほうが安全操縦上はいい。技術的には難しくなるが、第1ヘリコプター団のパイロットならば可能だと火箱は考えた。
では屋根のある原子炉にどうやってホウ酸をまくのか尋ねると、「お任せします」という。ホウ酸はまいて欲しいが、その方法については依頼している側にも策がないのだ。
そこでホウ酸をスリングネットに入れてロープで吊るし、屋上のひび割れの部分から投入する方法を提案した。
粉状のホウ酸20kgを入れた袋を250袋、計5t分用意する。そして建屋上空20mでホバリングしたヘリから、ホウ酸の重量に耐えられるよう3本を束ねた70mのロープで吊るすという方法を火箱は指示した。
(つづく)
(わたなべ・ようこ)
(令和三年(西暦2021年)9月9日配信)