神は賽子を振らない 第32代陸上幕僚長火箱芳文の半生(13)

火箱は発災直後に各方面隊へ電話し、たてつづけに指示を出したが、実のところ、これは自衛隊の運用規則上やってはいけないことである。
このような指示を出すのは、海自なら自衛艦隊司令官、空自なら航空総隊司令官という全軍司令官だ。つまり指揮系統が一元化している。
しかし陸自には5方面総監を司る陸上総隊がないので、総隊司令官が存在しない。陸自は災害派遣でも防衛出動でも、出動の際は5方面隊のうちその現場を管轄する方面総監が最高司令官となる。
以前は陸海空の各幕僚長が大臣命令を執行していたが、2006(平成18)年に運用規則が変わり、陸海空自衛隊の運用に関して大臣命令を執行するのは統合幕僚長の権限となった。つまり陸自の総司令官(フォース・ユーザー:部隊運用の責任者)は陸海空自衛隊を束ねる統幕長であり、陸幕長はフォース・プロバイダー(部隊の提供者。人事、兵站、教育支援、防衛力整備を担う)として「統幕長の命令に応じて措置する」ことが職務である。
だからいくら事前に統幕長に向かって「部隊を集めます」と言ったところで、陸幕長の火箱が大臣・統幕長の命令を受けずに「部隊を出せ」ということはできない。方面総監に指示を出す運用上の権限は、火箱にはないのだ。

「お叱りを受けるか、ひょっとしたらクビになるかもしれないな」

火箱自身もそう考えた。
運用違反・規律違反を追及されたときのことを考えたら、各方面総監には「出す準備をしろ」と言えばいいのだが、火箱はためらわず「出せ」と命じた。処分を覚悟で迷わず迅速な初動を最優先した。
有無を言わさず出動しなければ、統幕が「どの部隊をどれくらい出せるか」などを方面隊ごとに細々調整しなければならない。それだけで一晩かかってしまうだろうし、その間に救える命が失われてしまう。

「この状況で、この段階で、方面総監を動かせるのは俺しかいない」

、そういう思いだった。
また、平時ならともかく、この有事に統幕長が防衛大臣の補佐をしつつ各方面隊にそれぞれ連絡するというのも非現実的と言えた。電話できたとしても、火箱のように地震発生から30分以内にすべての方面隊へ指示を出し終えているという速さは実現できなかっただろう。しかも日没が刻々と迫っている。隊員が帰宅する時間になってしまえば、帰宅後の呼集は時間も手間暇もかかる。初動の1時間遅れが被災地到着・人命救助に1日、2日の遅れを生み、「生存率72時間の壁」を越えてしまう。
統合運用の原則の越権行為、ひいては「シビリアンコントロールの原則背反の疑い」ともされかねない異例の指示が批判を招いた際には腹をくくるつもりで、頭の片隅で「辞任の弁」も考えていた。
後日、防衛省の内局が火箱の行為を「越権行為」として調査検証したことを知った。
結果的になんのお咎めもなかったのは、「被災者救助に向けて最大限の行動をしよう」という共通の認識と暗黙の了解があったからかもしれないと、火箱は思った。
(つづく)
(わたなべ・ようこ)
(令和三年(西暦2021年)7月29日配信)