神は賽子を振らない 第32代陸上幕僚長火箱芳文の半生(7)

沖縄での部隊勤務は、毎日が新しいことの連続で、学ぶことが山のようにあった。
最初は地図判読もろくにできず、後ろで黙って見ていた花岡正明中隊長から「おい、通り過ぎたんじゃないのか」と声をかけられ、初めてミスに気づくといったことも珍しくなかった。この中隊長は軍神と呼ばれ部下の誰からも慕われ、火箱が幹部としての心得を一から教わった人だった。また、父親の年くらいの小隊陸曹は、火箱が訓練中にどうしたものかと困っていると「こっちから進むといいですよ」など、いつも助けてくれた。
第1混成団はさまざまな部隊から集められた隊員で構成されていたので最初こそまとまりにくい面があったが、返還されて間もない沖縄という特殊な環境で同じ苦労を共有していくうちに団結していった。火箱はそういう部隊で上官や部下にさまざまなことを教わりながら育ててもらった。今でも年賀状のやりとりが続いている相手もいる。
だが、沖縄時代の訓練の様子を写した写真はほとんど持っていない。「住民を刺激する」と、制服や作業服で駐屯地の外に出ることがままならなかったからだ。訓練する場所自体もなく、行進の訓練となると駐屯地の中を何十周もぐるぐる回るだけ。栗栖弘臣陸幕長が沖縄に視察に来たとき、火箱は大胆不敵にも「日常われわれは駐屯地外で訓練もできません。九州でなく沖縄で訓練できるようお願いします」と直訴したほどだった。
自衛隊への風当たりも相変わらず強かった。住民登録拒否はよく知られているが、隊員の車を焼かれたり盗まれたりといった物騒な出来事も起こっていたため、官舎では自警団を組んでいた。デモも相変わらずひんぱんに行なわれ、数万人規模で駐屯地にやってきた。乱入されて武器を奪われるようなことがあってはならないから、火箱らはライナー、手甲・すね当てを着け、警棒を持ち、いざというときのために建物の影に潜んで待機した。
デモを仕切っているのは本土からやって来た革新活動家勢力で、沖縄の人たちは個人で話せば人懐こくてやさしい人がたくさんいた。飲みに行っても歓迎されたし、沖縄の女性と結婚した隊員もいる。だからこそ、デモで「人殺し自衛隊帰れ」と罵られたときのショックは大きかった。その言葉を発したのが本土からの人間だとしても、火箱の胸に刺さった。
「俺たちがなにをしたっていうんだよ。いつ人を殺したんだよ」
たまらなく悔しかった。
「米国との戦争で沖縄が戦場になったのは事実だけれど、それとこれとは違うじゃないか。沖縄を護りに来たのに、なんで人殺しと言われなければいけないんだ」
悔しくて、腹立たしくて、駐屯地に投げ込まれた石やプラカードを「畜生」と思いながら片付けた。おそらくほかの隊員たちも同じ思いだったのだろう。桑江団長は「プラカードは捨てずに取っておけ、いつか『こういうこともあった』と記念になる」と言い、さらに「同じ日本人、いずれ自衛隊が認められる日も来る。それまで我々は沖縄のためにただ黙々と防衛任務を続けていけばいい」。
自衛隊がやった、俺たちがやったと声高に言わず、沖縄を陰から支える。そこに本質があると火箱は感じ、団長の言葉に救われる思いだった。
沖縄のメディアも自衛隊のポジティブな面は完全に無視した。米軍が実施していた離島無医村からの緊急患者空輸は自衛隊が引き継いだが、新聞は急患空輸があったという事実は書いても、それを自衛隊が行なっているということにはまったく触れなかった。
不発弾処理についても同様である。それでも第1混成団は黙々と任務を遂行し、1979(昭和54)年7月には急患空輸が無事故で1000回を達成している。そして2019(平成31)年4月1日 現在、第15旅団の急患空輸は9451件、不発弾処理は3万7487件となっている。
(つづく)
(わたなべ・ようこ)
(令和二年(西暦2020年)2月13日配信)