自衛隊の「平成の30年」(1)

平成元年、1989年は1月にベルリンの壁が崩壊するという、激動の時代を象徴するようなシーンで幕を開けました。
そして実際、防衛省・自衛隊にとってもこの30年間はまさに時代と共に否応なく変化・変革を求められた激動の時代となりました。
法の改正まで行なわれたような自衛隊のターニングポイントとなったキーワードを挙げるとすれば、「海外派遣」「災害派遣」「安保法制」「統合運用」「中国」あたりでしょう。今週から3回にわたり、これらのキーワードに沿って、平成という時代における自衛隊の変遷を振り返ってみたいと思います。
まず海外派遣ですが、今でこそ自衛隊が海外で活動する姿は特に異質な光景ととらえられていないものの、初めての海外派遣は平成3(1991)年に海上自衛隊の掃海部隊がペルシャ湾で行なった機雷除去でした。
前年に勃発した湾岸戦争において、日本は「金は出しても人は出さない」と国際社会から非難され、クウェートが米国の新聞に掲載した各国の支援に対する感謝の広告の中にも日本の国名は記されていませんでした。
政府は「しぶしぶ」イラクがペルシャ湾に敷設した機雷を除去するために部隊を派遣することにします(当時の海部首相の自衛隊嫌いは筋金入りだったと小耳にはさんだことがあります)。結果として優秀な掃海部隊が現地に残存していた機雷を処理(自衛隊の派遣が遅かったので機雷の多くは処理済みで、残っていたのは処理が難しいものばかりでした)、大いに面目を果たしたのでした。掃海部隊を率いた司令の落合畯(たおさ)1等海佐(当時)は、沖縄戦の司令官で「沖縄県民斯(か)く戦へり。県民に対し後世特別のご高配を賜らんことを」の電文で知られる大田実中将の子息です。
さらに平成4(1992)年にはカンボジアに自衛隊を派遣するため国際平和協力法(PKO法)が成立。
社会党(当時)が国会で牛歩戦術を行なうなど、大の大人が滑稽な姿を全国に晒すほどのすったもんだを経て可決された法律でした。懐かしいですね、牛歩戦術。しかしこの法律こそ、自衛隊の任務に初めて「海外での活動も含まれる」と国民に(そして自衛官自身にも)知らしめることになったのです。
実際、その後の防衛省・自衛隊は、国際平和協力活動として、現在までに

  1. 国際連合平和維持活動(いわゆる国連PKO)への協力をはじめとする国際平和協力業務、
  2. 海外の大規模な災害に対応する国際緊急援助活動、
  3. 旧イラク人道復興支援特措法に基づく活動、ならびに
  4. 旧テロ対策特措法及び旧補給支援特措法に基づく活動

を行なってきました。
そして平成19(2007)年には、国際平和協力活動は付随的な業務からわが国の防衛や公共の秩序の維持といった任務と並ぶ自衛隊の本来任務へと位置づけるまでにいたりました。
さらに国際平和協力業務などについては次のステージとして、自衛隊が蓄積した経験と施設分野などにおける高度な能力を活用した活動を引き続き積極的に実施するとともに、現地ミッション司令部や国連PKO局などにおける責任ある職域への自衛隊員の派遣を拡大することでより主導的な役割を果たすなど、わが国の国際貢献への取り組みに主体的に関与していく段階に進んでいます。
(わたなべ・ようこ)
(令和元年(西暦2019年)7月4日配信)