第5普通科連隊八甲田演習(1)

帝国陸軍とは一線を画し、戦後、新しい組織として誕生した陸上自衛隊。
旧軍の持つ「負の遺産」と決別すべく、一貫して過去と現在の姿を重ね合わせることはなく時代を歩んで来ました。
ところが同じ数字を冠する部隊として、山岳史上最悪といわれる遭難事故を起こした旧歩兵第5聯隊の歴史を受け入れ、その伝統を継承する定めを負った部隊があります。青森駐屯地に所在する第5普通科連隊です。
2010年に雑誌『MAMOR』の取材で、この5連隊の八甲田演習を取材しました。先日、この5連隊が今年も同演習を行なったというニュースを目にしたので、この演習がどんなものか、過去記事をもとにご紹介します。
余談ですが、連隊長や隊員のみなさんには取材で大変お世話になりました。その1年後の東日本大震災発生直後、岩手県内で救助活動を行なう彼らの姿をテレビで目にして思わず絶句しました。楽しかった取材はたった1年前のことなのに、画面を通じてですが、こんな形で、こんな状況での再会になるとは。
インタビューに応じてアップで映し出された顔は、5連隊へ着任が決まってからスキーの猛特訓をしたと笑っていた連隊長でした。
ところで、この演習がなぜ毎年ニュースで取り上げられるのかご存知でしょうか? と、聞くまでもないかもしれませんが、念のため今週は陸軍歩兵第5聯隊の八甲田雪中行軍遭難事件を振り返ります。
日露間の政治的緊張が高まっていた1902(明治35)年。日露戦争が勃発する2年前のことです。
ロシアによって津軽海峡と陸奥湾が封鎖された場合、冬季でも青森から三本木平野に通じる山間道を進めるかという雪中行動研究のため、第8師団歩兵第5聯隊は神成大尉を指揮官として八甲田雪中行軍を行なうことになりました。
1月23日。210名からなる雪中行軍部隊が青森連隊駐屯地を出発した朝は、比較的穏やかな天候でした。が、実際は未曾有の寒気団が日本列島を襲い、日本各地で観測史上最低気温を更新した日となるのです。また、この日は津軽地方の人にとって山の怒りを恐れて山に入ることを慎む「山の神の日」の前日でもありました。
行軍を開始して間もなく、重い荷を運ぶ行李隊が遅れがちになります。やがて天候も急変、風雪は強く気温も下がり、この時点で「帰隊しては」という声も出るほど八甲田は荒れ模様となりました。下士官の反対などにより行軍は続けられたものの天候はさらに悪化、胸まで雪に埋まるほどの積雪で行李も放棄せざるを得なくなってしまいます。
目的地である田代までの進路も見失ってしまい、その日は露営をすることになりました。しかし屋根覆いもない雪壕にいてはかえって凍死の危険があると山口少佐が判断、深夜に露営地を撤収して日中通った道を戻り始めました。ところが沢に入り込み前進できなくなることを繰り返すうち完全に道に迷い、5聯隊は遭難状態に陥ります。こうして死の彷徨が始まりました。
凍死者は相次ぎ、生きている兵士もほとんどの手足が凍傷にかかりました。奇声を発して川に飛び込む者、「救援隊が来た」と幻覚を見る者、「筏を作って川下りをして帰る」と言い出す者、藪や雪原に突進してそのまま姿を消す者など、異常な言動を起こす兵士も相次ぎます。
何度も進む道を断たれ、絶望の淵に立った神成大尉が「天はわれらを見放した。ここで全員枕を並べて死のうではないか」と言うと、それを聞いた者は一気に士気が下がり、次々と倒れていったといいます。
遭難4日目、神成大尉は帰路を発見したものの大滝平付近で力尽き、最期に後藤伍長へ田茂木野に行き救援を頼むよう命じました。この後藤伍長が立ったままの仮死状態で救援隊に発見されたことで、5聯隊の遭難が明らかになったのです。
最終的に生存したのは210名中、わずか11名。その多くも凍傷により足や手を失いました。
山岳史上最悪といわれるこの事件は新田次郎により『八甲田山死の彷徨』として昭和46年に小説化され、さらにこの小説を原作とした映画『八甲田山』で一般に広く知られることになりました。
(以下次号)
(わたなべ・ようこ)
(平成30年(西暦2018年)3月1日配信)