防衛大学校(1)

三浦半島東南端の小原台は、西に富士山、東に房総半島の山々を望み、眼下には東京湾を見下ろす景勝地です。
そこに将来の幹部自衛官を養成する防衛省の教育訓練機関、防衛大学校があります。
昭和27年の発足以来2万人以上の卒業生を送り出し、自衛隊の中核となるべき幹部自衛官を多数育成してきました。
しかし、学生であり特別職国家公務員でもある彼らが、そこでどんな生活を送っているのかを知る人は多くありません。この連載は学生たちの規律正しい日常や防衛大学校という組織について、以前執筆した記事に加筆修正してお送りします。
まずは防大の沿革からご紹介します。
昭和25年に創設された警察予備隊。
翌年には保安隊に改編するための検討が始められましたが、その際、幹部を養成する専門教育機関を設置する必要があるという声が聞かれるようになりました。
なかでも積極的だったのが吉田茂首相です。
当時、警察予備隊の幹部は旧軍人や一般からの公募者で占められていましたが、吉田首相は「将来の民主的軍隊」に備え、戦前とは異なる新たな中堅幹部の養成を考えました。
そこで「下克上のない幹部を作ってくれ」と、この構想について研究するよう指示を出します。
昭和27年5月、警察予備隊は幹部養成のための大学校設立準備室を設け、文部省の大学設置基準や新制大学の実情を研究し、また旧軍学校や米国軍学校などの資料も参照して設立準備を進めました。
そして7月には保安庁法が公布され、8月1日、槙智雄教授を初代学校長として保安大学校が設置されました。
翌年の昭和28年4月に第1期生の入校式が行われ、久里浜仮校舎での教育訓練が始まりました。
吉田首相は久里浜仮校舎を2度視察しています。
一度目は「諸君は将来のため日本の国力、国の勢力の基礎となり土台となって日本の発達、盛運、繁盛の礎となる重要な任務を負っており、国防の将来に重大な関係を持っている」、二度目には『防衛大学校50年史』によると「私は保安大学校の生みの親であるが、生みの親の責任も重大だが、その親の子として諸君が国を双肩に担う決意がなければ諸君は不肖の子となる」という訓示を行なっています。
余談ですが、制服は旧海兵隊と学習院の制服を参考にデザインされ、色調や基本形状に変更のないまま現在に至っています。
さて、保安大学校はその性質上、訓練が学術教育と並ぶ重要な役割を果たします。
ただし大学設置基準に準拠している関係上、どうしても学術教育よりも訓練の比重が軽くなってしまいます。
そこで本格的な術科訓練は卒業後の幹部候補生学校に委ねることにし、本校ではもっぱら基礎的技能の練磨と体力・気力の増強に重点が置かれました。
昭和29年7月、校名が防衛大学校と改まり、翌年3月には久里浜から小原台の新校舎に移転。
昭和31年には第4期学生が入校し、初めてすべての学年がそろいました。
校友会などのクラブ活動もこの頃からより盛んに行なわれるようになり、幹部を養成するための専門機関としての体制が着実に整っていきました。
昭和37年、防大は創立10年を迎え、基礎固めの時期から新たな発展の時期に入りました。
まずは一般大学の大学院に相当する研究科が設置され、修士課程相当の理工学研究科が正式に発足しました。当初は電子工学の1専門だけでしたが、徐々に専攻の数は増えていきました。また、東京オリンピックの開・閉会式に各国のプラカードを持って参加するなど、校外活動も行なわれるようになりました。
昭和46年度からは学生の海外研修(短期留学)もスタート。海外研修の大半は交換留学によって行なわれたので、昭和33年度から始まっていた留学生の受け入れと共に、防大の国際交流をさらに促進することになりました。
そして昭和49年には人文・社会科学専攻課程が開設。理工学の専門をカリキュラムの主体としてきた防大でしたが、ついに文系にも門戸を開くことになったのです
(以下次号)
(わたなべ・ようこ)
(平成29年(西暦2017年)8月24日配信)