海上自衛官(5)

今週も引き続き林氏の手記より抜粋してご紹介しますが、その前に当時の状況をご紹介しておきます。
米国は海底約620mの深さに沈んでいるえひめ丸について、技術的に引き揚げが可能であればかならず行なうと明言していました。この深さからの船の引き揚げは過去に例がなく、世界初のことです。一方、長期間にわたり沈没した船の捜索活動を続けている米海軍に対し、米国内では不満の声も上がり始めていました。国民性の違い、文化の違い、死生観の違い、さまざまな相違点がそのような声につながったのでしょうが、米海軍はその声に耳を貸さず、引き揚げ作業に尽力します。
船内の捜索は米海軍が行なっていましたが、遺留品の判断や文字認識などで日本の支援を求めてきました。それに応じて、当時海上自衛隊で最新の潜水艦救難艦だったちはやが派遣されました。ちなみに派遣の根拠は「愛媛県知事の要請を受けた災害派遣」とされました。
それでは林氏の手記をどうぞ。
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海上自衛隊が派遣した、最新の潜水艦救難艦「ちはや」がパールハーバーに入港したのは平成13年8月20日の午後でした。
岸壁に多くのマスコミ関係者が並ぶ中、堂々と入港した「ちはや」の艦首には日の丸が、艦尾には自衛艦旗が高々と揚げられていました。
「ちはや」の姿を見るまでは、思い思いの取材をしていた日本のマスコミ陣も、その旗を見た瞬間、誰もが目頭を熱くし、声を詰まらせていました。
私も、海上自衛隊に勤務して17年、これほど美しい艦艇、日の丸、自衛艦旗を見たのは初めてでありました。この時の感激、安堵感は一生忘れ得ぬものであり、日本国に対する愛国心を再認識した瞬間でした。
当初、引き揚げ作業は速ければ8月下旬にも完了するとの見通しでありましたが、実際の作業は困難を極め、1日1日と作業は長引き、「ちはや」の乗員139名の中にも、次第に焦燥感が高まってきました。
(略)
技術的な困難さから作業が遅れ気味になっており、いつ「ちはや」の出番になるか不安を抱えながらも、皆任務を達成したいという気持ちだけで、何一つ不満も言わずに準備作業、訓練に邁進していました。
(略)
遺体の捜索活動が終わりに近づいた10月末、米海軍は民間船を借り上げ、鎮魂のためにご家族を現場水域に案内しました。
「えひめ丸」を吊り上げていた枠組みの黄色い姿がぼんやり海に浮かんでいたものの、「えひめ丸」の船体そのものは見えませんでした。それでも、ご家族は必死で「えひめ丸」を探し、同船が西、つまり日本の方向を向いて海底に横たわっていることを説明すると、船上では泣き声がひときわ高くなり、海には花が次々と投げ込まれました。
やがて現場水域を離れる時間になり、船が動こうとしたとき、ご家族の一人の方が私を呼び、声を詰まらせながら「台船の上で作業をしている(※米海軍の)ダイバーたちにお礼の言葉を伝えたい」と言われました。
責任者の米海軍中佐に無線でメッセージを伝えると、台船上のダイバーから「皆さんの気持ちに応えるよう、全力を尽くします」と返事が来ました。
その内容を私がマイクでご家族全員に伝えたときでした。誰からともなく、台船に向かって手を振りはじめました。それに応えて台船上のダイバーもいっせいに手を振ってきました。現場海域にいたご家族、私、そして米海軍中佐をはじめ米海軍関係者全員が泣きました。
事故が起きたとき、家族の心は米海軍に対する怒りでいっぱいだったことでしょう。しかしながらそれから8カ月、最愛の夫や子供を亡くした悲しみは消えないものの、彼らの多くが米海軍に対して心を開いていました。
それは度重なる失敗や困難、問題に直面しても米海軍が固い決意で乗り越え、およそ誰もが不可能と考えていた引き揚げ作業をやり遂げたからであります。
米海軍は家族との約束を守ることだけを考え、必死で最善を尽くしました。船内に入ったダイバーたちは、危険な環境であるにもかかわらず、素手で作業をし、また遺体を見つけると海中で合掌の後、そっと触れました。
その陰には、遺体に関する日本人の気持ちを理解しようとする米海軍関係者の切なる思いがありました。
(以下次号)
(わたなべ・ようこ)
(平成29年(西暦2017年)1月12日配信)