海上自衛官(4)

今週から4回にわたり、海上自衛官としてハワイでえひめ丸事故に関わった林秀樹1等海佐の手記をご紹介します。
当時の産経新聞を元に編集部で加筆・再編成し、林氏の手記とともに平成14年12月にまとめたものが、『正論』平成15年2月号に『“名誉”とはなにか』として掲載されました。今回ご紹介するのは、その中でも林1佐が書かれた部分の一部抜粋となります。
林1佐はえひめ丸事故から2年近くが経過し、ハワイ連絡幹部としての任期を終え帰国した後にこれを記されました。なお、( )の中に※印で記載されているのは私が補足したものです。それではどうぞ。
=====
 当時、私は海上自衛隊から米海軍太平洋艦隊司令部に派遣された連絡幹部であり、ハワイにおいてはただ一人の海上自衛官でありました。
 私の本来の任務は、アジア太平洋地域も安定に寄与するための日米会場防衛協力、日米共同作戦、防衛力整備構想、各種共同演習などの調整業務に当たることでした。
これらを平たく言えば、米海軍の中にあって唯一の海上自衛官として日米両国の懸け橋になるということです。
(略)
 事故当初は被害者に対する同情論、米海軍に対する非難、中傷が渦巻いており、事故(※の原因)が米海軍にあるとは言え、あまりにもマスコミの論調、世論は偏っていました。
 家族の悲痛な叫びがマスコミなどによって増長されるにつれ、日米両国間の溝は深くなる一方であり、とどまるところを知らないかに見えました。
 私は米海軍司令部の唯一の日本人として、事故直後の捜索救助活動について家族説明を行う際に、専門用語の通訳などにあたることになりました。
 私が海上自衛官であることを知らない、また事故によって気が動転している家族からは厳しい叱責を受けたこともありました。
 私自身、この事故には直接何ら関係していない海上自衛官がいかなる立場で関与すべきであるのか。海上自衛隊までがいわれなき非難の対象となってしまうのではないか、という疑問があったことは否定できません。
 事実、太平洋艦隊司令官ファーゴ海軍大将は家族、マスコミに対して米海軍が話すときには、私を通訳に選ばれた反面、「事故そのものに無関係である海上自衛官を矢面に立たせてもいいものか」と悩んでおられました。
 しかし、最終的にはこの問いに対し、私は「日米両国の友好関係によって危機となりつつあるこの事態を救えるのは、50年間ともに太平洋の安定のために努力してきた海上自衛官しかない。ここはあえて火中の栗を拾ってでも、米海軍と海上自衛隊が一枚岩となって日米関係の亀裂を土壇場でくい止めることが求められている」と考えました。また、海上幕僚監部も同じ思いであったため、防衛部から同様の指示を受けました。
 海上自衛隊の制服を着ていても、米海軍司令部の一員として立ち会ったため、怒りに満ちた家族から「どっちの味方か」となじられることもありました。
(略)
 司令部棟にはEMCC(えひめ丸コマンドセンター)が開設され、私は日本に宗教観や礼儀作法を教え続けました。
 謝罪特使のファロン海軍作戦副部長もその一人でした。米海軍ナンバー2の大将が、当時まで「少佐」に過ぎなかった私に「日本人に対する正しい謝罪の態度を教えてほしい」と頭を下げられました。
(略)
 平成13年2月26日の朝、日本へ謝罪に向かう直前の米海軍機から、フェロン特使からの緊急電話が入りました。特使は「『えひめ丸』という言葉と『大西(船長)』という言葉の私の発音を直してくれ」と言いました。
 このころ、マスコミでは「土下座しろ」とか「米国政府は日本人の心情を理解できていない」などと言った論評が渦巻いていました。
 しかし、私はこのファロン特使の真摯な姿勢に胸を打たれるとともに、ふと日本人として我が身をおきかえて考えた時、これが仮に海上自衛隊の潜水艦が東海沖で訓練中に付近を航行中の東南アジアの漁船に衝突、行方不明者を出してしまったとして、海上自衛隊のナンバー2が謝罪に行くとしたら、ここまで相手の国民感情を理解しようと努力し、たかだか少佐ごときの連絡幹部に頭を下げるだろうかと思うと、改めて米国民の懐の深さに深い感銘を受けました。
(略)
 数日後、再びハワイに立ち寄られたファロン特使は、私の手を握り締め「君のおかげで米国民を代表して心からの謝罪を示すことができた。感謝する」とおっしゃいました。
(以下次号)
(わたなべ・ようこ)
(平成29年(西暦2017年)1月5日配信)