陸上自衛隊防災マニュアル(2)

自衛隊の災害派遣が大きな注目を集めるきっかけとなったのが、死者約5500名、負傷者4万名以上を出した1995年の阪神・淡路大震災です。
20年以上経った今も、神戸市のあちこちで火災が発生している様子を上空から撮影した光景は、私には東日本大震災の津波の映像と同様、はっきり脳裏に焼き付いています。
三ノ宮に昔勤めていた会社の社員寮があり、西宮には親しい友人がいたため、彼らの安否が確認できるまでは随分と不安な時間を過ごしたことも、今でも昨日のことのように覚えています。
余談になりますが、防衛大学校の元校長の五百旗頭真氏は当時神戸大学の教授でした。学校長時代にインタビューした際、「若い教え子たちを亡くしたことがつらかった」と語られていて、不覚にもインタビュアーの私が涙目になるという失態にありました。
都市を直撃した大型の直下型地震は、各種応急活動を迅速に実施する責任のある行政機関自体を被災させ、復旧活動に不可欠な道路や港湾施設などのインフラも甚大な被害を受けました。
自衛隊は延べ225万名、車両34万台・航空機1万3000機・艦艇679隻を派遣。その活動は高く評価され、自衛隊そのものの評価向上にもつながりました。
しかし、初動対処の遅れという人命に直結する深刻な問題が浮き彫りとなりました。
兵庫県知事から自衛隊に災害派遣要請があったのは、地震発生から4時間以上も経過してからです。
当時、都道府県が災害派遣要請を行うためには、市町村から都道府県への「災害派遣要請の要求」が必要とされていたのですが、通信手段が途絶え双方の連絡が取りあえず、市町村からの要求が確認できなかったのです。
また、自治体の行政機能がマヒしていたため被害状況の把握も遅れました(これは政府も同様でした)。
さらに兵庫県や神戸市の防災会議や訓練に自衛隊はしていなかったなど、そもそも自治体と自衛隊の連携が取れていませんでした。もともと自衛隊へのネガティブな感情が比較的強い地域だったため、「日頃からの連携などとんでもない」という状態だったのです。
このような複数の要素が重なり、自衛隊への要請が遅れることとなったのです。
災害時における人命救助のタイムリミットが72時間であることを考えると、最初の4時間のロスがなければより多くの命が救われたことは間違いありません。
ちなみに、選挙での落選を機に政界を引退した社民党の阿部知子氏は、後にブログで「自衛隊の初動が遅れたから救えるべき人命が失われた」と自衛隊を非難したところ、「当時の政権がどこだと思っている」とブログが大炎上、記事が削除されるというどうしようもないエピソードもありました。4時間のロスの責任は自衛隊にあるというのです(勝手に出動すればこれまた盛大に文句を言ったことでしょう)。この話は今でもネットで検索すれば出てくると思います。個人的には「どの口が言うか」という気持ちです。自衛隊に否定的な人間や組織ほど、災害派遣の際に「助けに来るのが遅い」と、なんの裏付けもない稚拙な主張を堂々と本気で言う気がします。
話を戻しましょう。4時間のロスという苦い教訓から、法整備をはじめ、各種対策が講じられることになったのです。
まず、1995年に災害対策基本法が改正され、災害派遣時の自衛官は(警察官がその場にいない場合に限り)、緊急通行車両の通行を確保するため、道路上の放置車両を除去できることになりました(阪神・淡路大震災では勝手に除去できないため立ち往生するシーンも少なくありませんでした)。
また、市町村長は、都道府県知事に対して災害派遣要請を要求できない場合、防衛庁長官に災害の状況を直接通知できるとしました。
さらに災害派遣時の自衛官は市町村長、警察官および海上保安官がその場にいない場合に限り、次のような権限も与えられました。
・警戒区域を設定し、立ち入り制限・禁止、または退去を命じること
・救援活動拠点等のため、土地や建物を使用すること
・人命救助を行なう場合など、障害となるものを移動、あるいは撤去すること
・土地、建物その他の工作物を1時使用、または土石、竹木その他の物件を使用・収用すること
・現場の自衛官では足りない場合などに、住民または現場にいる者に人命救助や水防などの業務を行なわせること
次回は法整備や各種対策のご紹介の続きと、東日本大震災における自衛隊の災害派遣についてご紹介します。
(以下次号)
(わたなべ・ようこ)
(平成28年(西暦2016年)9月8日配信)