オリンピックと自衛隊(6)

今回はオリンピック支援集団長の梅沢治雄陸将補(1964年に陸将に昇任)のご紹介からです。
 梅沢陸将補は山形県出身、1911年(明治44年)生まれ。陸軍士官学校44期生、1938年に陸軍大学校を卒業。
 太平洋戦争開戦直前に参謀本部員となり、1945年3月に陸軍中佐に昇任。翌月、参謀本部員兼大本営参謀となって、そこで終戦を迎えました。
 1952年に自衛隊入隊(正確にはこの年に警察予備隊から保安隊へと名称が変わっています)、第1普通科連隊長、富士学校普通科部長を経て1959年陸将補へ昇任。
 1960年に陸上自衛隊幹部候補生学校長、翌年に陸上自衛隊幹部学校副校長を歴任し、東京オリンピック支援集団長に就任します。
 1964年に陸将となり、オリンピック終了後の11月に第11師団長となっています。
 1969年に退官後は綜合警備保障に入社、専務まで勤めました。
 正4位勲3等旭日中綬章、2003年に老衰のため91歳で逝去。まさに激動の20世紀を生き抜いた人物です。
 梅沢集団長は集団司令部の編成に当たり、次の統率方針で支援上の心構えを示しました。
 統率方針:融和団結、職務の完遂、自衛隊の真価の発揮
 支援上の心構え:今一歩の親切心、厳正確実しかも「スマート」に、突発事態に心の余裕、事故の防止に手ぬかりはないか、功は他に譲り、縁の下の力持ちに徹せよ
 開会式が1カ月先にせまった1964年9月11日の毎日新聞に、梅沢陸将(当時)のインタビューが載っています。人となりがわかる一文なので、抜粋して紹介します。
「競技のルールから、語学にマナー、隊員はまったくよくがんばってくれた。それと、これまでの開催各国ともうまくいかなかった輸送関係をどうするかで、いちばん苦労しました」。
(略)陸士44期で陸大はトップ、第6師団参謀や大本営陸軍参謀などをやり終戦時は陸軍中佐。戦後は復員局から自衛隊入りをして、前職は統合参謀本部第4幕僚室長と、ほぼ一貫して動員・編成畑を歩いてきた。身長175センチ、体重87キロの堂々たる美丈夫(略)
「むかしの軍隊はいくさのことばかりを考えておればよかったが、いまは違う。さきごろも災害に出動して感謝されたが、こんどはオリンピック支援の任務を立派に果たして、平和時における自衛隊の姿がどうあるべきかを国民にシカと認めてもらうように努力したい。(略)本当は、もっと年が若かったら、陸士時代にやった馬術、水泳、射撃などで近代五種に出る資格があるんですがね」
 さて、続いては1964年1月上旬~3月下旬の動きです。
 この時期は、オリンピック支援集団司令部にとって諸計画の準備期に当たります。それまでOOCはじめ部外関係機関などとの直接交渉は集団司令部の任務として与えられていませんでしたが、集団司令部の編成完結によって、また業務の必要性や先方からの要請により、各担当者を必要な会議に出席させられるようになりました。
 また、所要の調整も実施できるようになったことで、各関係機関との調整がスムーズになりました。
 記録に詳細は記されていませんが、どうもこの時期は、先にできていた内局のオリンピック準備委員会や陸幕のオリンピック準備室が対外的な窓口となっていたようで、さらにOOCに派遣されている幹部自衛官もいたため、実任務に当たる集団司令部が自由に関係者とやりとりできないゆえの不都合が生じていたようです。
 いつの時代も、実際に汗を流す現場レベル同士で話すのが、いちばん話が通りやすいはずなのですが。同じ組織であるものの、水面下ではパワーゲームが繰り広げられていたのかもしれません。
 こうしていよいよオリンピック開催年、1964年度の最終フェーズを迎えます。
(つづく)
(わたなべ・ようこ)
(平成28年(西暦2016年)4月28日配信)