オリンピックと自衛隊(5)

先週、防衛庁のほうから「オリンピックでその支援はできません」と断った項目があることをご紹介しました。
 OOCもまずいと思ったのでしょうか、協力できないと言われた項目について再度検討します。そしてその結果、「選手村管理事務所事務と馬術補助審判についてだけは、なんとかお願いしたい」と、譲歩しつつ防衛庁へ再度要請してきました。
 そこで、防衛庁も(というか陸幕も)「ならば仕方がない」と、この2点については協力することにします。
 また、衛生救護についてもOOCは当初「陸上競技場における担架要員」という支援業務を要請していましたが、これについては競技運営に協力する種目のみ協力することとしました。
 この結論にいたるまでに防衛庁とOOCの間にどれだけのやりとりがあったのかはわかりませんが、防衛庁としても陸自としても、これは譲れない、負けられない戦いだったに違いありません。
 一方、OOCもじわじわと要求を拡大させていきます。1年前の1962年と比べ、要請人員・装備の合計はいずれも増加しています。
要請人員・装備合計
人員4795名(競技関係)
1/4トントラック357台
3/4トントラック52台
1/2トントラック82台
救急車9台
レッカー車1台
無線機148台
有線機273台
交換機8台
航空機10機
砲3門
給水セット1個
艦艇55隻
発電機2
折り畳み舟5
 次に、オリンピック支援の中核となる陸自の動きを見てみましょう。
 陸自の東部方面隊は、1963年8月上旬に東京オリンピック支援集団準備本部を編成、支援集団の編成準備等を担当させました。後に東京オリンピック支援集団長となる梅沢陸将補を筆頭に、各部隊から選抜された20名が支援集団の基幹要員として配置されます。
 そして東部方面総監部から臨時勤務中の陸幕オリンピック準備室の幹部や、OOCに派遣されている幹部と相互の連携を保持しつつ、12月に集団司令部が編成完結しました。
 さて、東京オリンピック支援集団という支援組織の編成要綱が決定されるまでの間には、解決しなければならないいくつもの問題点がありました。
 まず、特別の支援部隊を編成するか、あるいは1962年1月に編成された第1師団を増強して協力を担当させるか、です。
 第1師団は東京都練馬駐屯地に司令部を置き、東京、神奈川、埼玉、静岡、山梨、千葉、茨城という人口が集中した地域の防衛・警備および災害派遣の担任地区とする政経中枢師団です。第1師団はやはり態勢を維持していなければいけないということと、対外的影響を考慮し、支援業務に専念する臨時編成部隊を編成することになりました。
 ではこの協力グループはどんな地位に置くのが適当でしょうか。
 これには長官直轄、東部方面総監直轄、第1師団長に配属という3案がありましたが、部隊の指揮運用や行政管理支援などから東部方面総監直轄案が採用されました。
 次に、グループの長は東部方面総監兼任にするか、あるいは別に立てるかを決める必要がありました。
 その結果、方面総監は隷下の第1師団と第12師団を統括して従来の任務を遂行、協力グループには専任の指揮官を配して東京大会協力に専念させることとしました。
 まだあります。
 編成の時期について、支援集団の全部隊を早い段階で同時編成するか、それとも集団司令部のみ早期に発足して各群隊は直前に編成するかが問題となりましたが、後者の案が選択されました。
 ならば集団司令部の「早期」発足とはいつが適当なのか。
 これはオリンピック支援集団準備本部が編成された1963年8月がいいのか、あるいは1964年3月以降がいいのか議論されましたが、ローマ大会に協力したイタリア軍隊の準備の経緯などを参考に、1963年12月という中間の時期に決まりました。
 このほかにも編成の要領や支援集団主力の配置場所(朝霞駐屯地に決定)、集団司令部の配置場所(市ヶ谷駐屯地となったが駐屯地が手狭で、陸海空各幹部学校共用の兵棋講堂に司令部を置きました)など、実に細かでさまざまな課題を根気強く、ひとつずつクリアしていきました。
 こうして東部方面総監統轄のもと、各方面隊や海・空自、防大からなる、4625名によるオリンピック支援集団が、特別部隊として臨時に編成されたのです。
(つづく)
(わたなべ・ようこ)
(平成28年(西暦2016年)4月21日配信)