オリンピックと自衛隊(4)

先週は1962年度のオリンピックに向けた防衛庁の動きをご紹介しました。今週はその続きからです。
1963年度は計画を補備修正するフェーズです。協力する業務と主要協力担任部隊を定め、陸・海・空幕僚監部はオリンピック準備室および東京オリンピック支援集団司令部を設け、諸計画を作成しました。
また、陸自はほぼ全般協力を行なうため、支援業務に専念する臨時編成部隊が必要だという結論に至りました。
 陸自の第1師団と海自の横須賀地方隊は、計画の具体化ならびにオリンピックでの協力をよりスムーズに行なうことを目指し、東京国際スポーツ大会にも協力しました。これはプレオリンピックという位置付けだったため、運営の要領などについては、翌年に控えたオリンピックの予行として行なわれました。そのため陸自は、オリンピックの協力予定部隊をできる限りこの大会に協力させました。
 その結果、さまざまな成果を得ることができました。まずは協力全般が成功したことで、オリンピックに対する大きな自信となりました。また、準備訓練の要点や期間などの目安もわかりました。さらに、協力担当部隊と競技団体との間に人間関係が確立できたことも大きな収穫でした。広報についても「一貫性のある広報が必要」という教訓を得たことが、東京オリンピック支援広報渉外センターの設置へとつながります。
 そして1963年6月には、防衛大学校の学生が標識係として協力することと、空自のジェット機による五輪飛行が決まりました。
 さて、1963年度の動きで注目すべきは、先週ご紹介したOOCから要請のあった支援内容について「自衛隊が協力するのは適当でない」と判断、協力を断った業務があることです。
 それは
選手村の清掃
(警視庁の使用する)警備用資材の輸送
天幕の提供
大会役員用乗用車の操縦
広報用通信技術支援
馬術における馬の誘導作業
です。
 OOCも防衛庁からのノーを受け入れ、これらに対する支援は取り止めとなりました。
 防衛庁としてみれば「選手村の掃除まで自衛隊にやらせるのか」、「なぜ警察の資材をうちが運ぶのか」、「天幕は自衛隊しか持っていないのか」と、忸怩たる思いがあったに違いありません。
 現在の自衛隊は冬に除雪作業に駆り出されることがありますが、なかには自衛隊が災害派遣される基準である「緊急性」「公共性」「非代替性」の原則を本当に満たしているのか問題視されるケースもあります。
 数年前、選挙区が豪雪地帯のある国会議員が、地元に「○月の大雪の際は自衛隊に災害派遣を依頼しました」と自分の手柄のようにPRしていましたが、いろいろ突っ込みどころ満載の発言ですね。
 オリンピックについても、自衛隊でなければ支援できないことならば、防衛庁は協力を惜しまないでしょう。けれど「自衛隊ならなんでもやってくれる」という便利屋扱いでの要請は、受け入れられるものではなかったはずです。オリンピックへの協力と災害派遣は法的根拠も異なりますが、なぜその支援は自衛隊でなければいけないのか、警察や消防、あるいは民間企業ではできないことなのか、依頼の根拠をOOCが防衛庁にしっかり明示できないものがあったということなのでしょう。
 そして、支援できない事項だと判断したのは、防衛庁長官でもオリンピック準備室室長の防衛事務次官でもなく、陸上幕僚監部でした。
 陸幕はオリンピックローマ大会の視察に、2名の幹部自衛官(1等陸佐)を防衛庁長官官房の職員と共に派遣しています。その後は陸幕オリンピック研究委員会を立ち上げ、協力のあり方を研究してきました。そのため「自衛官としてふさわしくないもの、あるいは自衛隊の組織や装備を提供しなくても十分運営できると思われる項目」について、客観的に判断することができました。そこで要請を取りやめるよう、防衛庁オリンピック準備室に伝えたのです。
 防衛庁から拒否された支援事項があったことは、OOCにとってはもしかしたら想定外だったかもしれません。
 今よりもはるかに自衛隊に対する風当たりが強い時代、テレビ放送を通じて日本国内のみならず世界中に自衛隊の雄姿をアピールする絶好の機会に、防衛庁が乗らないわけがないと思っていた節もあるのではないでしょうか。だから選手村宿舎の掃除まで支援を依頼したのだとしても、不思議ではありません。ところが防衛庁は、OOCが反論できないしごくまっとうな理由で断ってきたのです。
(つづく)
(わたなべ・ようこ)
(平成28年(西暦2016年)4月14日配信)