自衛隊海外派遣の歩み (8)

先週に続き、自衛隊初の国際緊急援助活動となった1998年ホンジュラス共和国への空輸隊の話です。
 隊長の藤川氏はメンターとT33で教官を勤め、回転翼に機種転換してからは救難に関わってきた人物です。
「準備命令が出てから出発までは、約1週間ありました。航空機には荷物を積み込む手順があり、そこに重量と容積というふたつの要素が関わってきます。さらに今回はあちこちに立ち寄り給油しながら行きますから、最長距離を飛ぶときの燃料と荷物の積載量で飛行距離が確定します。この辺の準備に時間がかかると困るのですが、積載する荷物を用意する陸自の医療支援隊は小牧に近い守山駐屯地からの出発だったので助かりました。距離的にも陸上と航空の専門家同士での調整がつけやすかったのです」
 効率的な積み方は、専門家だからこそ短期間にできること。航空機に関わる職種というと操縦士や整備員が真っ先に思い浮かびますが、ロードマスターも輸送機運用に欠かせない非常に重要な役目を担っています。
 旅客機なら米本土での一度乗り継ぎで行けるホンジュラスですが、航続距離に限りのある輸送機は、あちこちの米軍基地に立ち寄って給油しなければなりません。時間も労力もかかりますが、当時はまだ海外派遣の経験が多いとはいえない自衛隊に、米軍は非常に親切だったそうです。
「ホンジュラスまではグアム、マーシャル諸島、ハワイ、サンフランシスコ、テキサスと経由しました。ほとんどが米軍基地なので、飛行場の支援の心配は全くありませんでした。このときの私たちに対する米軍の支援、協力は実にスムーズで、非のうちどころがないほどよくしてもらいました。アメリカは人道支援というのが風潮としてあるせいでしょうか、自衛隊がホンジュラスに行くということを高く評価していましたね。ホンジュラスの空港の情報なども、米軍経由で入手できましたし。経路も米軍の戦術訓練に何度も参加しているので、初めてのところはケリー米軍基地とホンジュラスだけ。飛行距離は長いしきつい日程でしたが、日頃の訓練と米軍のサポートに支えられました。唯一の懸念事項だった天候にも幸い恵まれたので、その点は本当にラッキーでした」
 そうして飛行時間だけでも片道約35時間、移動に4日を費やした先で待っていたのは、濁流に飲み込まれた街と、周囲を山に囲まれたすり鉢状の空港でした。
「ホンジュラスのソトカノ空港は米空軍のジェット輸送機でも降りられる長さのランウェイがあったし、施設も行き届いた飛行場でした。ここを利用できればよかったのですが、医療支援隊がいる首都のテグシガルパまで約80キロ離れているうえ、そこまでの道路があちこち寸断されているという状況でした。迅速に資機材を渡すためには、道路が復旧するまではテグシガルパ市内のトンコンティン空港に降りざるを得ません。しかしこれが着陸に高度な技術を要求される大変な空港でした。周囲を全部山に囲まれていて、すり鉢状の底の部分に短いランウェイがあるのです」
「トンコンティン空港」で検索してみると「世界でもっとも危険な空港ワースト10」「ありえない着陸」など、スリリングな言葉が出てきます。山に近すぎる立地、短く、しかも斜めに傾いた滑走路。着陸の動画もあるので、興味のある方は見てみてください。実際、2008年にはTACA航空の航空機がオーバーランする事故が起きています。
「ダブルキャプテンで行ったのですが、着陸復行してもいいよと言っておいたくらいです。それくらいアプローチが難しい空港でした。それが全機一発で着陸したものだから、米軍のパイロットたちも驚いていました」
素晴らしい! 空自パイロット、お見事です。
「最終的には医療支援隊の資機材を日本からトンコンティン空港まで約20トン、テキサスのケリー空軍基地からソトカノ空港まで約11トン運びました」
 藤川氏が取材時に見せてくださった写真には、現地の惨状が収められていました。
 電信柱の中ほどに引っかかっているかろうじて車と分かる鉄の塊、土砂の中に埋まっている屋根。モノクロの写真かと間違えそうになるほど、すべてが泥一色に染まっていました。
「ホンジュラスの街の様子は酷いものでした。普段はちょろちょろと流れている川があって、その周囲はすべて山。トンコンティン空港と同じですね。山の谷間に川と街があるので、上流で大雨が降るとあっという間に水かさが増して、街ごと濁流に飲まれてしまった。向こうの民家というのはドロ造りなので、跡形もなくなっていました」
(以下次号)
(わたなべ・ようこ)
(平成28年(西暦2016年)1月21日配信)