自衛隊海外派遣の歩み (2)

湾岸戦争において多国籍軍へ130臆ドルもの財政支援を行なっても、クウェートをはじめ国際社会からの理解も評価も得られなかった日本。
 自衛隊嫌いで知られた海部俊樹首相も、さすがに重い腰を上げざるを得ない状況となっていきます。同時に、「目に見える形での具体的な国際貢献は行う必要がある」という声が国内でも次第に大きくなっていきました。
そして停戦後、政府はついにペルシャ湾の機雷除去作業のため掃海部隊の派遣を決定したのです。
 政府は掃海任務を定めた「自衛隊法第99条」に基づき、ペルシャ湾に掃海部隊を派遣する方針を固め、1991年4月16日には「ペルシャ湾における機雷等の除去の準備に関する長官指示」が正式に発出されました。
 自衛隊初の海外派遣の主役となった艦艇は最新鋭の装備を誇る護衛艦ではなく、海外演習の経験もない小さな木造の掃海艇でした。
 掃海派遣部隊の編成は、掃海母艦「はやせ」、掃海艇「ひこしま」、「ゆりしま」、「あわしま」、「さくしま」及び補給艦「ときわ」の計6隻。第1掃海隊群司令の落合畯(おちあい・たおさ)一等海佐(当時)が指揮することになりました。
余談ながら落合氏は沖縄戦で「沖縄県民斯ク戦ヘリ」の電報を送ったことで知られる大田実中将のご子息です。
 掃海部隊の派遣準備が始まってから出航までの猶予はわずか10日間。それは、持っていく必要があると考えつくあらゆるものを、梱包も解かず積み方も考えず、とにかく船にどんどん積み込むという怒涛の日々でした。
 限られた時間のなか、一度も寄航・訪問経験がない海域の情報収集や航路の選定が進められ、横須賀、呉、佐世保の3つの基地では隊員たちによる不眠不休の準備が続きました。同時に、自衛隊の海外派遣に反対する声が聞こえるなかでも派遣隊員の士気を高め、そして残された家族に対しては一切の不安を与えないよう、各種の措置をとる必要がありました。
 そんななか、落合氏は1日も早くペルシャ湾に到着したいと思っていたそうです。取材時、落合氏は次のように語りました。
「インド洋の海況が心配でした。出発が遅れるほどモンスーンをまともに受けることになり、500トンに満たない小さな掃海艇には厳しい航海になることが予想されたので。4月末の出発というのは、モンスーンを避けられるまさにぎりぎりのリミットだったのです。それに日本以外の掃海部隊がすでにペルシャ湾で機雷の掃海に当たっていましたから、自分たちだけが遅れて参加するというのは国内の事情でやむを得ないものの、けれどやはり一刻も早くほかの国と協力しあって掃海作業を進めたい、そう思っていました」
 しかし4隻の掃海艇はいずれも沿岸作業用に造られた木造船。時速はどんなに頑張っても10ノット程度、自転車と変わらないようなスピードで、片道約6800マイルもの航程を進まなくてはいけません。到着までは1ヵ月と1週間かかることが予想されました。
「この日数を少しでも短くするにはどうしたらいいか。それには水や食料、燃料補給のために立ち寄る港での滞在時間をできる限り短縮するしかありません。朝8時に入港、補給したものを船に搭載する作業が終わったら即出航、その時点でまだ午後4時、こんな感じです。搭載には大体6時間かかりますから、隊員たちが上陸して一息つく時間なんてまったくありません。往路で寄港したスービック、シンガポール、ペナン、コロンボ、カラチ、すべての港でこのようなハードスケジュールでした。よく隊員たちが一言の文句も言わず耐えてくれたと思います。おかげで海が静かな時にインド洋を渡れ、予定より1週間早くドバイに到着できました」
 4月26日、ペルシャ湾掃海派遣部隊は横須賀、呉、佐世保から部隊集結場所である奄美群島に向けて出港。
 落合氏のコメントにあるように補給のために立ち寄る港での滞在時間もできる限り短縮し、予定より1週間早い5月27日にUAEのドバイに入港しました。
 当時、肩身の狭い思いをしていたクウェート在住の日本人は、自衛隊の到着に涙を流して喜んだといいます。
 その後6月5日から9月11日までの99日間にわたり、主としてペルシャ湾の北部海面でアメリカおよび他の多国籍軍派遣部隊と協力して掃海作業を行ないました。
(以下次号)
(わたなべ・ようこ)
(平成27年(西暦2015年)12月3日配信)