神は賽子を振らない 第32代陸上幕僚長火箱芳文の半生(40)
さて、雲仙普賢岳では火砕流、雨が降れば土石流の危険がつきまとっていたが、九州全体でも土石流の危険が高まっていた。梅雨の時期は迫っているし、梅雨の後は台風の季節になる。
地盤のゆるんだ場所の倒木を放置しておけば、土石流、土砂流が発生した際にそれらが凶器となって人命、財産、橋梁などに二次的被害をもたらす危険が増す。これまでの災害派遣は、災害が発生してから自衛隊に支援の要請をするのが常だった。しかし1991(平成3)年の九州には「災害が起こる前に自衛隊を派遣して危険な倒木をあらかじめ伐採して処分してもらいたい」という政治の要求があった。いわゆる予防派遣である。チェーンソーによる倒木の伐採は地元の森林業者も行なっていたが、切断方向を誤ると大変危険で、死亡事故も起きていた。
火箱は業務計画変更を起案し決裁を受け、西部方面隊の2万3000名が1カ月間の予防派遣に従事できるようにした。施設科の隊員のみなどと言っている余裕はない。職種を超えて「木こり教育」を実施した後、山林の谷間にある木を伐採し、運び出し処分する災害派遣が始まった。火箱は重松西部方面総監に付いて福岡、大分、熊本、佐賀の現場を一緒に回った。訓練班長時代の写真がまったくないのは、部隊長のように目立つ立場ではなく、こうしていつも担当幕僚に徹する存在だったせいもある。
そしてその年の9月、台風17号、19号が相次いで北部九州に上陸。特に19号は最大瞬間風速60m以上の暴風を記録するなど、福岡県、熊本県、佐賀県、大分県に大きな森林被害をもたらした。各地の山林では膨大な数の杉やヒノキが根元から倒れたり、途中から折損したりして谷を覆っていた。このときから風による被害ということで「風倒木」という言葉が広く使われるようになった。
火箱が勤務する熊本県の健軍駐屯地周辺も、19号のときは強風が吹き荒れた。
駐屯地から官舎までは自転車で五分程度の距離だが、暴風はすさまじく、とても自転車など乗れる状態ではない。家に向かう火箱の目の前で電柱が倒れ、瓦が飛んでいる。帽子が飛ばされないようにしっかりと押さえながらようやく帰宅すると、飛散防止のためガムテープを貼った窓を、妻と息子たちが必死に押さえている。よく見ればあまりの強風で、窓のサッシとガラスがしなって弓なりに反っているではないか。
「危ないから止めろ! こっちに来い!」
家族全員で奥の部屋に逃げ、そのまま一夜を明かした。幸い窓ガラスが割れることはなかったが、台風一過の外は惨憺たる光景だった。もしも予防派遣が行なわれていなければ、山間部ではおそらく倒木を含む土石流でさらに甚大な被害が出ていたことだろう。
振り返れば、雲仙普賢岳と風倒木台風というふたつの自然災害は、自衛隊における災害派遣の転機になったと火箱は思う。自治体や大学など関係機関との密な連携、いつ火砕流が発生するかわからない状況で人々を避難させたり遺体を回収したりといった命がけの任務、かつてないほどの長期にわたる派遣期間、そして災害が発生する前に対処した予防派遣。 前例のないことばかりだったが、西方が、そして部隊が「前例がない」を言い訳にすることはなかった。そして1995(平成7)年に起きた阪神淡路大震災における災害派遣で得た苦い教訓によって、災害派遣に関する法整備が進むことになる。