対馬の3自衛隊(3)
対馬の歴史の続きからです。
幕末の1861年になると、対馬の中央に広がる浅茅湾をロシアの軍艦ポサドニック号が占拠する事件が勃発、イギリス軍艦の圧力により撤退するまで半年間を要しました。さらにその後もロシアは南下政策を続けたため、対馬は要塞化されていきました。
姫神山砲台には28センチ榴弾砲が6門備え付けられ、海軍は水雷艇を対馬海峡東水道に出撃させるため、人工的に万関瀬戸(久須保水道)を開削。
万関橋は開削された瀬戸に架かり、現在も対馬の上下島を結んでいます。
また、白村江の戦い後に築城された金田城も再び要塞として整備され、巨大な大砲が据え付けられ、古くから島の東西を結ぶ交通と軍事の拠点であった厳原町内陸部にも上見坂堡塁が築造、9センチカノン砲4門が築造されました。
そして1904年に日露戦争が勃発。対馬沖・日本海を主戦場とした海戦で東郷平八郎率いる連合艦隊がロシアのバルチック艦隊を撃破しました。この戦いは国内において「日本海海戦」と称されていますが、国外では「対馬海戦」の名で知られています。余談ですが、ちょうど現在、テレビドラマ「坂の上の雲」が再放送されていますね。
第一次世界大戦後、軍拡で財政が圧迫された主要国により1921年に締結されたワシントン条約で廃棄が決まった戦艦の艦砲の1部が、対馬の要塞砲に転用されました。豊砲台には軍艦「赤城」(「土佐」または「長門」説もあります)の砲身長18.5メートル、砲身重量108トン、実用射程距離30.3キロという当時世界最大級の40.6センチカノン砲1基2門が移設されました。戦後、米軍により爆破、武装解除されたましたが、鉄筋コンクリートは厚く完全には爆破・解体できず、今も内部を見学できるほど原形を留めています。
白村江の戦い、元寇、そして砲台跡が今も島内各地に30カ所以上残っていることなどからも、対馬の歴史はまさに国境の島ならではの融和と衝突を繰り返してきた島であることがよくわかります。
さて、ここからは対馬に所在する陸海空各自衛隊のご紹介をしていきます。
2024年春、陸上自衛隊対馬警備隊の訓練の様子が初めて公開されたテレビ番組を見て驚きました。市街地戦闘訓練を演習場や訓練場ではなく、廃校で行っていたのです。それはつまり訓練場以外の場所で空包を撃てる、生地訓練ができる島だということです。実際、訓練検閲でも生地を使用しています。沖縄各島などの駐屯地や基地の部隊からすれば、まさに夢のような環境でしょう。
陸上自衛隊対馬駐屯地は、1872年に鎮西鎮台から対馬分遣隊が対馬藩の桟原城跡に駐屯したことに始まります。1886年には司令部、歩兵隊、砲兵隊からなる対馬警備隊に改編されました。1920年には警備隊から対馬要塞へ改編されましたが終戦により解体。戦後は米軍の駐留した時期もありましたが、1962年に別府の第41普通科連隊第4中隊が対馬派遣隊として移駐し対馬分屯地が開設され、1980年に対馬警備隊の新編に伴い対馬駐屯地へと格上げされました。
国境の島対馬の防衛・警備、対馬海峡の情勢把握及び国民の自衛隊に対する理解と信頼を深めた功績により、2018年には内閣総理大臣からの特別賞状を受賞しています。「やまねこ軍団」の愛称は、対馬にのみ生息しているツシマヤマネコにちなんだものです。
(つづく)