対馬の3自衛隊(2)
先週、対馬はガソリン代が高いと書きました。そして対馬で働く自衛官にガソリン代の補助があるわけではないともお伝えしました。
北海道の部隊の一軒家に住む隊員から、冬の光熱費は月に約6万かかると聞いたことがあります。寒冷地の住まいは部屋を暖めるのではなく家を暖めますからそのくらいかかってしまいますが、11~3月の5か月間は7360~26380円の寒冷地手当が支給されます。
残念ながらガソリン代にはこのような手当てはありませんが、代わりに山間部や離島などの生活に不便な地域に支給される特地勤務手当というものがあります(東京や大阪など物価の高い地域で勤務する隊員に支給される都市部手当というものもあります)。
自衛隊の特地勤務手当は1~6級まで6つに区分されており、数字が大きいほど支給額は多くなります。航空自衛隊の海栗島分屯基地は4級、海上自衛隊上対馬・下対馬警備所は3級、陸上自衛隊対馬警備隊及び海上自衛隊対馬防備隊本部は2級と、同じ島内に所在する自衛隊でも場所によって等級は異なります。ちなみに6級は硫黄島や南鳥島所在部隊などで、これは納得ですね。
なお、対馬在住者に対してのみ適用される飛行機やフェリー料金の島民割引があり、単身赴任中の自衛官も週末家族の元に帰る際に助かっているそうです。
対馬の歴史についても触れておきたいと思います。
対馬は古代から大陸との文化・経済交流の接点、そして国土防衛の最前線として重要な役割を担ってきました。
対馬は弥生時代末期(3世紀)に編纂された中国の歴史書『魏志倭人伝』に記述があり、「断崖絶壁が多く山が深く、道は獣道のよう。朝鮮半島と日本本土を往来して交易している」旨のことが書かれています。
古代の対馬に緊張状態をもたらしたのが、663年の白村江の戦いです。朝鮮半島には高句麗・新羅・百済の3国が分立していましたが、唐・新羅の連合軍により日本と同盟関係にあった百済が滅ぼされ、中大兄皇子が送った援軍も白村江で大敗。朝鮮半島からの撤退を余儀なくされた朝廷は唐の侵入を警戒し、667年には対馬に金田城を築きました。
鎌倉時代には蒙古襲来、元寇が対馬を襲います。1274年の文永の役では元寇軍約千騎が小茂田浜に上陸、迎え撃った対馬守護代の宗資国以下80余騎が激戦の果てに全滅。島民にも多数の犠牲者が出て、対馬と壱岐は全島にわたって甚大な被害を受けました。あまり知られていませんが、本当にひどい被害だったそうです。奴隷として元に連れ去られた者もいました。余談ですが「アンゴルモア 元寇合戦記」というマンガは対馬を舞台にした元寇の話です。
安土桃山時代、朝鮮出兵の際に豊臣秀吉の御座所として清水山城が築城されました。対馬は戦場にこそならなかったものの、約30万人もの兵士の拠点となったため食糧難が生じました。定期的に災難が降りかかる対馬、まだ不幸は続きます。