"おべんきょう"と"れんしゅう"

2019年2月6日

 今回は、大学にありがちな「外国語学習の実態」について意外に感じる面白いお話し
をしたいと思います。一聞したところは、「青臭い」とか「幼稚な」とか「児戯に等し
き」感じがしないでもありません。また、学歴があってみたり留学経験があってみたり
するような外国語の出来る知的な御方がそのようなことを・・・と思われるかもしれま
せん。
 しかし・・・これは案外、無意識の内に染まってしまいがちなことでもあり、
学生さん=受講者レベルでは全く当然と「信仰」してしまう点があります。

 このような話しは聞き流すのではなく、実際に政治と国民、マスコミと一般市民、
会社と従業員、組織と個人などに通底する普遍から、各個における特殊を導きだして
「聞き直し」、「見直し」、「考え直し」(むしろ普通の生活では曲聞、曲見、曲考が
多いものです・・・)してみるとかなりの戦略、情報、兵法の「次元」というものが
アップして来ることになりましょう。それは、あなたの能力が違ったものに進化すると
いうことです。
 では・・・
 外国語を習う・・・それは、親が海外に赴任していたとか、特別な機会があって
ネイティヴに習ったとか、とにかく幼少時にそれなりに恵まれた機会がなければ、普通
は10歳以降に始まる教育機関において体験することになります。
 この10歳と言うのは、第一言語(母国語)が脳に定着してしまう時期でもあるのは
よく知られたところです。そして、この10歳を過ぎたら・・・それは、幼児が条件反射
の反復から習慣化する学習ではなく、ドンドン発達してくる脳と正比例して論理で学ん
だ方が早く身につくところでもあります。
(よって、日本人の多くは中学校に入学して、13歳で外国語の学習を始めることに
なっています。)
 そして・・・高校を卒業するあたりには一般的な社会人の仲間入りとなる、即ち、
世間一般的には支障のない思考と行動が可能な人としての扱いを受けるようになりま
す。
 大学には、(日本ではごく一部を除き・・・)外国のような飛び級制度が認められて
いない点からも大学生になっている人は18歳以上の人々です。
 この18歳以上の人が集まる大学では様々な学部があり様々な学問が研究され教育され
ています。が、外国語科目というものだけは大学らしい響きがありますが・・・「大学
でやるもの」とはかけ離れたところがあるのです。
 それは・・・目的と手段の本末転倒なのです。
 そもそも大学での外国語学習は、個人で学ぶ語学=戦術の一つ(手段)としてでは
なく、各個が専攻する学術分野に関連したり、各個の知的レベルを発展・進化させるこ
とにつながっているものであり、結果的には多次元的多面的思考の養成につながってい
てこそ初めて高等教育機関で行う「外国語科目」=戦略(目的)になって来るもので
ありましょう。
 まさに大学での外国語科目とは、やさしく言えば”おべんきょう”なのであります。
それは、如何に外国語の学習を体験することで受講者本人の論理的思考が向上し、
難しいことでも簡単にして行く能力が進化して行くのか?ということであり、その経過
の中で当該の外国語が自然と自分のものになっていくだけ・・・なのです。
 この”おべんきょう”こそ常識的に考えて大学の講義時間でやりなさいというもので
あります(お父様方お母様方、愛するご子弟様方に支払う貴重なる高い授業料の対価も
見いだせるというものです)。
 一方、同時に、この目的の達成のためには、外国語の学習過程で生じる各テーマに
ついて身につけるためにその手段として、やさしく言えば”れんしゅう”を反復・継続
してマスターしなければなりません。例えば、スペイン語では名詞の複数の作り方、
動詞の活用など・・・です。
 しかし、”れんしゅう”とは、そもそも各個人レベルで行う自主的、自律的、主体的
な意志と努力に帰結するものですから、「やるのは個人の場で行ってこその効果」とな
るものです。よって、自宅でやりなさい・・・ということになって来ます。
 外国語の科目にありがちなのは・・・この”れんしゅう”に相当するところ、即ち、
テキストの例文の和訳作業、練習問題の解答作業にのみ講義時間を費やし、まったく
講義らしいこともしないでおいて、単なる条件反射に過ぎないことを学生にさせている
だけで・・・大学の講義をしているのだ・・・と勘違いしているものがあるのです。
 これでは、高い授業料の対価どころではなく、そもそも自宅学習で済むことを大学で
むつかしそうにして恩着せがましく高飛車にやる・・・ということになります。
「芸術は長し、人生は短し」*(Ars longa vita brevis)とか。
(* http://www.kitashirakawa.jp/taro/indexj.html )
 面白いのは、本来、自宅でやる”れんしゅう”を大学でのメイン授業と取り替えて、
偉そうに「文法とかは家でやってくるものですよ!」とか「テキストの問題は、先に
自分でやってしまってから授業に出てきなさい!」とか命令口調で偉そうに言うような
“教授”とかが出てくることになります。(著者の実際に経験したことです!)
 これが初級文法のクラスなどにありがちな、練習問題の解答を順番に学生にさせる
だけの授業とか、講読のクラスなどでの一定の行数を学生に訳させて意味不明な訳に
なっていても放ったらかしで済ませている・・・というような授業になって来るので
す。
 「授業はほんまにヒマや」とか「講読は、やってたら眠と~なってくるわ」とか・・
同業仲間の会話(懇親会)で実際にあった発言ですが、これが本末転倒を繰り返す方々
の本音とするところでもあり、彼らの正体でもあります。
 この手の方々に共通するのは、学術面で活躍するのではなく、当該の外国語の語学が
メインになってしまっている方々なのです。結局・・・学生に対する”ジェラシー”と
いうものが観察され自分のレベルを追い越す学生を警戒する、早期に発見して芽を
摘み取る、何時までも学生は低レベルなのがありがたい・・・ということです。
 また、本格的な学者の方々からは自らの正体が見破られないように頑張っています。
(あるネイティヴの先生がこの点を指摘して笑っていました。)
 学生は真面目に言われた通りに従いますから・・・結局、修業年限が来ても残るもの
がない状態で終わってしまうのです。これでは、外国語の科目を履修しても空しいだけ
ではないでしょうか。
“おべんきょう”を”れんしゅう”にすり替えてしまう・・・それも立場を使って
やってしまう・・・目的と手段のすり替えは、「虚」の元です。
(最近の流行りは検定試験の過去問や予想問をやる”れんしゅう”をその受験結果を
問わないで「単位をくれる授業」・・・などが出てきています。)
 このようなことが見破れると・・・面白くなってきますね。
 そのような違いの分かるあなたになるには、
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