きょうは海軍記念日

2019年2月6日

 
 
おととい5月25日は、大楠公・楠木正成が湊川で戦死した日(延元元年)です。
湊川神社では、5月いっぱい楠公まつりとして、楠公祭(5月24日~26日)
などいろいろな祭典が行われています。なお、例祭は旧暦5月25日
(新暦7月12日)に斎行されています。
きょう5月27日は海軍記念日。
聯合艦隊が、ロシアバルチック艦隊を日本海で撃滅した日。
戦闘が集結した翌28日は東郷神社の例祭が、30日には、御祭神
命日祭と多磨墓地墓前祭が斎行されます。
ちなみに3月10日は陸軍記念日。
帝国陸軍が、ロシア陸軍を日露戦争の奉天会戦で撃破した日です。
全国の護国神社等で例祭が斎行されます。
海軍記念日と陸軍記念日に関して書かれた、
高志さんのコラムを2編紹介します。
■今日は海軍記念日
2006.05.27 Saturday17:24
今日は「海軍記念日」と言ったってどれくらいの人がそれを思うだろうか。
特に海軍と縁もゆかりもなかった人間でそんな変わり者がいるのだろうかと
思いながら何時もこの日を過ごして来た。子供の時に刷り込まれた記憶とい
うものは事の善悪に関係なく怖ろしいものだ。それだけに彼の国々で行われ
ている反日教育が如何に怖ろしいものであるかも想像に難くない。
今日は何の日?という番組があるが1年365日何もない日はないといって
良い。記念日でなくても語呂合わせで無理矢理何かの日が出来ているのが現状
だ。今日は何の日なのか検索してみて驚いた。5月27日は百人一首の日な
のである。その他毎月27日は「仏壇の日」「交番の日」「ツナの日」になっ
ている。
敗戦によって海軍は無くなり「記念日」も廃止された。しかし歴史は消え
ない。この日は帝国海軍がロシアのバルチック艦隊を破り日露戦争を勝利に
導いた日なのである。
海上遥かに轟き渡る砲声に祈りを込めて祖国の勝利を神に願った人々の気持
ちはどんなだったろうか。野球やサッカーの試合ではないのである。負ければ
祖国も民族の未来も無い。
愛国心はこういう歴史を振り返ることで出来てくる。負けた記録と謝罪の
言葉だけでは何も生まれない。
明治時代の人を羨ましく思うのは勝利の美酒を味えた事である。昭和生まれ
の私は敗戦の苦痛しか知らない。しかし同時に明治人は日露戦争の勝利を境に
それまでのひたむきな気持ちを忘れ驕り昂って行ったのも事実である。
さて、信濃丸の通報で始まった日本海海戦は翌日にかけて行われたが、
世界の海戦史に例の無い大勝利で終った。
最新式の装備を持ち、手ぐすね引いて待ち構えていた連合艦隊と地球を半周
する長旅に疲れ果てていたバルチック艦隊では戦う前から帰趨は見えていたと
も言える。だがロシア海軍も決して弱兵ではなかった。艦齢20年の老巡洋艦
ドミトリー・ドンスコイなどは翌日夕刻まで奮戦を続け最後はただ1艦、周囲
を日本艦隊に取り囲まれた中で自沈して果てるのである。こうしてこの海戦は
終幕となるが、ロシア艦の最後も愛国精神の発露であったろう。
http://karyu-seikatu.jugem.jp/?eid=2127
■陸軍記念日
2007.03.08 Thursday17:20
海軍記念日については昨年少し記述したし、多くの心ある人が話題としている。
しかし陸軍記念日について書かれたものにはあまり出会わない。
3月10日の陸軍記念日は影が薄いのだ。どちらもロシアに対する戦勝記念日
だが、日本海海戦が完勝だったのに比べ奉天会戦の勝利はヤットコサだった所為
かも知れない。
それよりも東京大空襲の方が強い印象を残してしまったからであろうか。
しかし戦前は陸軍の催しの方が盛大だったと思われる。
「連隊」は全国にあった。 明治時代の軍歌「歩兵の本領」には
「軍旗を守る武士は/ 全てその数20万/ 80余ヶ所に屯して・・・」とある。
陸軍の兵営は地域と深い繋がりがあった。連隊では年に一度連隊祭りが行なわれ
賑わったという。当然陸軍記念日は地域の人々も交えて祝われたものと思うが、
生憎私は古き良き時代は知らない。物心付いた時は戦時中で連隊は全員戦地に出征し
ており、残っているのは留守部隊だった。機密を守る為か私達は連隊の建物や練兵場
には近づく事も出来なかった。
鳥取40連隊 http://www.burari2161.fc2.com/hohei40rentai.htm は支那事変
が始まると間もなく出征していたので軍旗は本部と共に戦地へ移動していた。留守
部隊は新しい兵員を訓練して前線の部隊と入れ替わる準備をする為にある。予備役
の兵士や甲種合格ではなかった謂わば次点の若者達が招集される。一定の訓練が終
ると兵士達は前線に移動した。
出発は誰にも報せず隠密に行なわれたが鉄道を利用するので鳥取駅まで約50分
の区間は徒歩行進である。出征の噂は何処からともなく伝わり皆見送りに出た。
赤ん坊を背負った若い女性が自分の夫を探す姿は今も瞼に残る。
余談になるが昭和18年9月10日午後5時37分鳥取市を震源とする大地震が
あった。「鳥取震災」と呼ばれるものでマグネチュードは阪神大震災のそれに匹敵
する。しかし、今でも鳥取県人以外でこの地震を知る者は殆どいない。当時の新聞に
はホンの2,3行地震が「有った」事が報じられただけだった。地震の被害が余りに
も大きい事を知った政府は報道を禁止したのである。
激しい揺れが収まった時、兵営には非常呼集のラッパが鳴り渡った。そして30分
後には救助作業の為、連隊の総員が出動したのである。全て徒歩と人力によるもので
あった。しかしその速さは後年の機械化された救助に勝っていた。
http://karyu-seikatu.jugem.jp/?eid=1839