トーチ作戦とインテリジェンス(20)

2019年2月6日

こんにちは。長南です。
東京は猛暑日が連続して続きましたが、おかわりないでしょうか。
今週もよろしくお願い申し上げます。
■前回までのあらすじ
本連載は、1940年から1942年11月8日に実施されたトーチ作戦(連合国軍によるモロッコおよびアルジェリアへの上陸作戦のコードネーム。トーチとは「たいまつ」の意味)までのフランス領北アフリカにおける、米国務省と共同実施された連合国の戦略作戦情報の役割についての考察である。
前々回から、情報調整局(Office of the Coordinator of Information,;OCI)が行った北アフリカ地域の諜報活動について述べている。
情報調整局の諜報員が収集した現地情勢に関する情報は、1941年12月22日から1942年1月14日にかけてワシントンDCで開催されたアルカディア会談において重要な意味を持った。
会談の期間中、ルーズヴェルト大統領およびチャーチル首相は、北アフリカにおいて英米の連合作戦を行うことを検討しており、情報調整局が収集した情報は、ルーズヴェルト大統領およびチャーチル首相の北アフリカ侵攻構想に影響を与えた。
そして、この英米両首脳の決断が、トーチ作戦(当時はスーパージムナスト作戦と呼ばれていた)計画立案の基礎となったのである。また、この英米両首脳の決断は、情報調整局にとっても大きな意味を持った。というのも、この決断により、情報調整局は、英国の秘密情報部(SIS。MI6としても知られる)および特殊作戦部(SOE)と共同して秘密工作・破壊活動に従事する役割を担うことになったからである。
アルカディア会談も終了後、ルーズヴェルト大統領はドノヴァンをホワイトハウスに呼び出し、情報調整局にとってこれまででもっとも実質的な意味を持つ任務をドノヴァンに与えた。それらの任務には、フランス軍参謀本部との秘密裡の接触を通じて、フランス領北アフリカへの米軍侵攻後に生起することが予想されるフランス軍と米軍との戦闘を回避することや、当時中立の立場をとっていたスペインの中立を確実にするなどの任務が含まれていた。
そして、任務達成のために、ドノヴァンは、英国のインテリジェンス機関と共同して大規模かつ多額の予算を必要とする秘密工作活動を実行する権限が付与された。
北アフリカでの活動は情報調整局の権限と役割とを迅速に確立することができる大きなチャンスであった。というのも、北アフリカでの困難な任務は、米国内の他のインテリジェンス機関に、ドノヴァンおよび情報調整局の能力を認めさせる絶好の機会であったからである。
今回も情報調整局が行った北アフリカ地域の諜報活動について述べることとする。
■北アフリカにおけるインテリジェンス活動の指揮権をめぐる英米の争い
連合国による北アフリカへの侵攻作戦が成功するためには英米の密接な協力が不可欠である。そこで、情報調整局と英国の特殊作戦執行部(SOE:Special Operations Executive)との関係をより良好なものにするために、ドノヴァンは、ウィリアム・“イントレピッド”・スティーヴンソンと協議し、両機関の管轄地域に関する合意を成立させた。
この過程をパトリック・K・オドネルは、著書『秘密諜報部員・スパイ・破壊工作員』(原題:Operatives, Spies, and Saboteurs)の中で次のように述べている。なお文中の( )は筆者の補足である。
「英国人と米国人は、北アフリカにおけるインテリジェンスおよび特殊作戦の作戦指揮権をめぐって争いを始めた。米国よりもインテリジェンス活動の経験が豊富なパートナーである英国は、(この地域での)指揮権を持つことを希望していた。
しかしながら、ドノヴァンは、北アフリカは戦略情報局(OSS。情報調整局の後身)の作戦であるべきだと主張した。彼は、米国が(北アフリカへの)侵攻の先陣を務めることになるであろうことや、英国民が北アフリカでの作戦活動に従事することを禁じられていること、そして(実質的に諜報活動に従事していた副領事をフランス領北アフリカに駐在させることを認めた)マーフィー・ウェイガン協定を通じて、米国がすでに既存のインテリジェンス・ネットワークを持っていることに気が付いていたのである。
最終的に北アフリカは、ドノヴァン=ハンブロ協定として知られる合意により、戦略情報局の縄張りとなった。ドノヴァン=ハンブロ協定は、特殊作戦執行部と戦略情報局による特殊作戦を進めるための枠組みとしてつくられたものであり、英国と米国の作戦地域を定めたものであった。」
■ドノヴァンが知らされていなかった英国による北アフリカでのインテリジェンス活動
メルセルケビール海戦以降、英仏関係が悪化し、フランスがフランス領北アフリカにおける英国人の活動を禁止していたため、英国はロンドンに亡命していたポーランド政府のインテリジェンス能力を利用してアルジェリアおよびフランス領モロッコにスパイ網を作り上げていた。
ドノヴァンが当時把握しておらず、英国も明らかにすることを望んでいなかったことであるが、この英国のアフリカ機関は北アフリカで作戦活動中であり、情報調整局が大統領より収集することを要求されていた情報の大部分を提供することができたのである。
しかしながら、英国は米国に譲歩をした。英領ジブラルタルに駐在するブライアン・クラーク大佐が指揮する英国の地中海地域における秘密情報・特殊作戦組織は、英米間の協定により、情報調整局の管轄下に置かれることになったのである。
英国が譲歩した理由は次の点にあった。すなわち、英国政府は、アフリカ機関の活動の全貌を知られることよりもむしろ、北アフリカにおける情報調整局の責任者たるエディ中佐に入手した情報を報告することを選んだのだ。情報を報告するだけなら、アフリカ機関が行っている秘密情報・特殊作戦活動の全貌を米国側に察知される可能性は低い。
ドノヴァン=ハンブロ協定の裏には両国の種々の思惑が蠢動していたものの、こうして、フランス領北アフリカおよびスペイン領北アフリカで実施される連合国のインテリジェンス活動により得られた情報をロンドンおよびワシントンに報告する権限は米国のエディー中佐の手に帰することとなったのである。
■情報調整局の戦略情報局への改組に伴って生じた統合参謀本部とドノヴァンとの論争
北アフリカの第一線の背後において米英両国間で管轄地域をめぐる争いが進展している一方で、ドノヴァンは、米国政府内の他のインテリジェンス組織ともう1つの戦いを強いられていた。
この争いは、情報調整局が創設された時にドノヴァンが米国のプロパガンダ活動を担当させるためにつくった外国情報部をめぐる問題から発生した。
この点に関して、戦略情報局の戦争報告書(War Report)は次のように述べている。
「インテリジェンス機関の全面的再編が懸案になっていた時期、ドノヴァン将軍は統合参謀本部と面倒な問題を惹き起こした。統合参謀本部は、ドノヴァン将軍の賛同を得たうえで、情報調整局が統合参謀本部を支援する機関となることを大統領に提案した。」
この問題は、もし統合参謀本部が情報調整局創設当時すでに存在していたならば発生しなかったように思われる。情報調整局が1941年に創設された当時、統合参謀本部(1942年7月創設)がいまだ存在していなかった。統合参謀本部創設後、陸軍情報部や海軍情報局と異なり、情報調整局は陸軍の管轄下にも海軍の管轄下にも置かれなかったのだ。
さて、既述したように、北アフリカにおいて情報調整局は、大規模侵攻作戦の準備のために、秘密情報活動・プロパガンダ活動・破壊工作活動などを行う。したがって、「情報調整局が1942年6月に戦時情報局(Office of War Information)と戦略情報局とに分裂した時に、このことが、戦略情報局は統合参謀本部の下に置かれるべきだという議論を説得力のあるものとした。
その年の終わりに、戦略情報局の存続が問題となると、北アフリカにおける作戦活動は統合参謀本部の決定の影響を受けるようになった。」(United States War Dept. Strategic Services Unit History Project and United States War Dept, War Report of the OSS. New York: Walker, 1976.)。
■戦略情報局の創設 ~戦略情報局、統合参謀本部の管轄下に入る~
さて、管轄問題という厄介な問題はどうやって解決されたのであろうか。この問題はドノヴァンと統合参謀本部との協議により、情報調整局が戦略情報局へと改組されて、大統領行政府から統合参謀本部の管轄下に移転することで解決をみた。
また、情報調整局内にあったプロパガンダを担当する機関も、戦時情報局の創設に伴って情報調整局から戦時情報局に移された。
以上の組織改編は、1942年6月13日の大統領令によりなされた。こうして、ドノヴァン率いる戦略情報局は正式に軍事組織の一部となったのだ。
さて、数回にわたり情報調整局創設から戦略情報局への改組までの米国のインテリジェンス活動をみてきた。次回からは、視点を変えて、今回登場したアフリカ機関を中心とする英国のインテリジェンス活動について述べてみたい。
(以下次号)
(ちょうなん・まさよし)