朝鮮戦争における「情報の失敗」 ~1950年11月、国連軍の敗北~(11)

2019年2月6日

1918年当時のウィロビー□1950年11月の情報の失敗の「制度的原因」
前回で、本連載の最初に指摘した、1950年11月に「情報の失敗」が発生した3つの原因(予測分析の問題、制度的機能不全、人的・政治的要因)のうち、予測分析の問題が終了した。今回から、1950年11月に起きた情報の失敗を惹起させた、制度的原因の考察に筆を進める。
チャールズ・ウィロビー少将は極東軍司令部参謀第2部(G2:情報部)の情報日報の中で、「6月25日以来[筆者注:朝鮮戦争開戦日]、私は、日々真夜中まで、査覈資料の標準化を維持することに、個人的な注意を傾注させた」と述べている。
ウィロビーによる極東軍司令部参謀第2部に対する監督は、彼が、太平洋における極東軍の情報分析、および朝鮮半島における中国の脅威に関する米政権中枢の理解に対し、直接的かつ個人的なコントロールを維持したことで確保された。
ウィロビーが主導する極東軍司令部参謀第2部が作成した多くの情報報告書は、朝鮮半島の最前線に展開する米第8軍および米第10軍団から上申された報告書や情報分析に依拠したものであったが、これらの分析は朝鮮半島の戦場で実際何が起きているのかという現実を反映したものではなかった。
また、ワシントンの政府中枢が朝鮮戦争の状況認識に関しウィロビーやマッカーサーが提出する報告書に依存したことは、マッカーサーに対し適切な指針や指示を与える軍事・政治指導者の能力を制限してしまう結果につながった。
もし、ウィロビーが中国政府の意図や戦争準備、さらには中国がすでに朝鮮戦争に参戦している戦術レベルの徴候を示す詳細な情報を持っていたと仮定するならば、1950年11月に中国共産党は朝鮮戦争に干渉しないだろうというウィロビーの情報分析の失敗に寄与した制度的要因はどのようなものであったのであろうか。
換言するならば、共産中国が北朝鮮領内に大規模部隊を投入したとする多くの証拠が存在したにもかかわらず共産中国が朝鮮戦争に介入しないと結論付けたウィロビーの情報分析に影響を与えた「制度的要因」とはどのようなものであろうか。
今回から数回にわたり、この点を考察してみる。
▼競合仮説分析を妨害した、ウィロビーによる個人的な情報の支配
ウィロビーが個人的に情報分析を支配したことは、独立した分析や競合仮説分析(Analysis of Competing Hypotheses:複数の情報機関に同じテーマを分析させて政策決定者を納得させる分析手法)を制限することになった。
ウィロビーが情報分析を「支配」できた原因は極東軍司令部内の組織風土に存在した。
極東軍司令部では、極東軍司令官マッカーサーに対し完全な忠誠を示したものが報われ、そうでない者は「アウトサイダー」として孤立化する傾向が見られた。本連載でも、マッカーサーに対しても忌憚のない意見を具申する米第8軍司令官ウォーカー中将がマッカーサーから冷遇・無視され、マッカーサーの「寵臣」米第10軍団司令官アーモンド少将やウィロビー少将がマッカーサーから厚遇された事例が何度か登場したことを覚えておられる読者もおられることであろう。
前回の連載でも指摘したように、1950年10月中旬の仁川上陸作戦以降の作戦的成功が、中国の軍事的能力に関する警告的論調から、人民義勇軍が示した攻勢意図の諸徴候の無視へと、ウィロビーの情報分析を変化させた。国連軍が38度線の北へ向かい退却する北朝鮮軍の追撃に成功したことが、組織内部に焦りや性急さを引き起こす原因となった。
そして、国連軍内部に存在したこの「焦りや性急さ」こそが、敵軍が増強されている現状にもかかわらず朝鮮戦争の迅速な終結を追求するあまり、現状を無視した情報分析を行い、情報の失敗を増幅する要因となったのである。
これまでの連載でも見てきたように、仁川上陸、国連軍の38度線越え、そしてウエーク島会談は、組織的摩擦が戦術的・戦略的情報分析評価や、政策意思決定にどのような影響を与えたかを明確に示している。
マッカーサーの幕僚の中で最も影響力を有する人物の1人であったであろうウィロビーはこれら重要事件に深く関与した。上記の各事例は、ウィロビーとマッカーサーが、ワシントンの政府首脳の意見を無視して、自身の戦略的目的(朝鮮戦争早期終結のための鴨緑江への攻勢作戦)を強固なものとする一方で、いかにして独立した情報分析や競合仮説分析を妨害したのかを明確に示している。
▼ウィロビーによる極東軍司令部参謀第2部の拡充
ウィロビーは1941年にマッカーサーの情報参謀として配属されフィリピンに赴任し、比島陥落に際しては、マッカーサーと共にバターンから脱出している。
マッカーサーの反攻作戦に際し、ウィロビーは、新たに設置された連合軍翻訳通信班(ATIS:捕虜に対する尋問や鹵獲した命令文章の翻訳を担当)、連合軍諜報局(AIB:諜報・謀略担当)を運営して大いに功績があった。マッカーサーがウィロビーの情報分析を信頼するようになった理由も、ウィロビーが対日作戦における情報活動で大活躍したことに存在する。
朝鮮戦争当時のウィロビーは、第二次世界大戦と同じ手法で、極東軍内部に軍事情報部門を組織した。ウィロビーの組織編成は現代的なものであり、現在の米軍が使用する教範フィールド・マニュアルFM101-5に対応する形で、情報部の役割と責任を確立している。
1950年6月に朝鮮戦争が勃発した際、ウィロビーが最も懸念したことは、1945年の日本降伏に伴う復員の結果、自身が率いる情報部内に経験豊富な要因が不足していることにあった。この欠陥は、極東軍司令部参謀第2部だけではなく、その当時の米国の情報コミュニティーが共有する一般的な問題でもあり、特に、シギント(SIGINT:通信、電磁波、信号等を媒介とした諜報活動のこと)に携わる専門家や言語に強い人材が不足していた。
朝鮮戦争の進展と共に、ウィロビーは極東軍司令部参謀第2部を改編し、シギント専門の部門を極東軍司令部参謀第2部に加えると共に、敵軍の部隊移動や戦争捕虜に対する尋問を担当する調査部門を設置した。戦時捕虜の尋問を専門とする部門を設置するあたりは、ウィロビーが第二次世界大戦において連合軍翻訳通信班を運営した経験が役に立ったのであろう。
それと同時に、ウィロビーがシギント部門や調査部門を設置したことは、第二次世界大戦の時と比較して、その当時における極東軍司令部内のこうした部門の活動がウィロビーの要求する基準を満たしていなかったことをも意味する。朝鮮戦争勃発時における極東軍司令部参謀部第2部の情報収集分析能力は、第二次世界大戦時のそれと比較してかなり低下していたといえるであろう。
▼ウィロビーが最も重視した戦術情報部による情報日報の作成
ウィロビーは戦術情報部(Tactical Intelligence Division:T/Intel)を極東軍司令部参謀部第2部で最も重要な部門であるとみなしていた。北朝鮮が韓国に侵攻する以前、戦術情報部は、「朝鮮半島を除く」アジア大陸における兵力配置を監視するのが任務であった。1950年6月25日の北朝鮮軍による38度線越境以前、朝鮮半島における情報活動を担当していたのは、ソウルに駐在する米軍顧問団であった。
マッカーサーの極東軍司令部が韓国における作戦指導の任務を付与されるや否や、ウィロビーは朝鮮半島におけるあらゆる情報活動について責任を有するようになった。1950年7月25日付の極東軍司令部参謀部第2部覚書第41号をみると、「戦術情報部の直接的な監督を特に重視した」という一文があり、ウィロビーが戦術情報部の活動に大きな関心を抱いていたことがよくわかる。
戦術情報部の最も重要な役割は情報日報(Daily Intelligence Summary:DIS)の作成にあった。情報日報は極東軍司令部参謀第2部の情報分析の結果を関係諸機関に伝える重要文書であった。ウィロビーの側近であるルーファス・S・ブラットン大佐はその重要性について次のように語っている。
「GHQの全広報システムは、極東軍司令部参謀第2部の情報日報を中心に回っている。広報システムとはすなわち、部外情報係将校により毎日出される公式発表、公式声明、ワシントンへ毎日送られる情報要約や電報などなどである」。
ウィロビーは情報日報を自身が直接監督する必要がある重要な報告書であるとみなしていた。1950年9月1日の覚書において、ウィロビーは、いかにして彼が個人的に情報日報の作成に介入し、情報日報を編集しなければならないのかについて詳述している。さらにウィロビーは、指揮幕僚学校や陸軍大学校の卒業生たちが情報日報を作成するためには役に立たないとの不平も述べている。
極東軍司令部参謀部第2部が作成する情報日報は、CIAが作成する韓国情勢日報や陸軍省第2部が作成する統合情勢日報の基礎となる情報を提供していたため、ウィロビーの個人的な情報分析は、ワシントンにいる政策意思決定者が入手する情報報告書に過度に影響を与える結果となった。
朝鮮戦争勃発から最初の5か月間、ウィロビーが情報日報を個人的にコントロールしていたため、情報報告作成過程において、ウィロビーによる戦略的評価に過度に偏向する傾向があった。ワシントンにいる上級軍事・政治指導者が入手する情報報告書や情報分析の圧倒的大部分は、ウィロビー率いる極東軍総司令部第2部の報告書の情報に依存して書かれたものであった。
当時の陸軍参謀総長ロートン・コリンズ大将は、国防総省が戦略計画策定や政策立案に使用する情報の90%がウィロビーからの情報に由来するものであったと見積もっている。この、ワシントンにおけるウィロビー情報への依存体質が、ウィロビー率いる極東軍司令部参謀第2部による分析が国防総省のみならずCIAにおいても普及し、大きな影響力を持つことを確実なものにする結果を招いた。
(以下次号)
(長南政義)