武士道精神の実践:柴五郎中佐と北京の日本兵たち
こんにちは。日本兵法研究会会長の家村です。
前回お届けしたメルマガに対し、お便りをいただきました。
<非常におもしろい逸話でたのしく読みました。
ただ、武道の話をよく聞くものとしては精神面の観念論だけでなく、いったいどういう事だったのか?具体的な術理としてどういう事をしようとしたのか?というとこにも興味があります。
剣術や居合いなどまったくやったこともない者ですので、なにか推測でもよいので解説をいただけたらもっと面白そうだと思いました。
それにしても、斬られにいくにはどうしたらよいかという一見素っ頓狂な、それでいてかなり真に人間の精神的なものに迫った質問をする人間と、それに応えうる人間がいるというのは、この話が実話であればつくづくレベルの高い人格者が過去の日本にいたのだな、と感じるエピソードです>(m谷さん)
<「北斗の拳」の無想転生はこれから来ているのですね。勉強になりました♪>
(msxturboさん)
<おもしろかった。このメルマガは良き勉強にもなるしためになる。長く続けていただきたい。とても好きなメルマガです。>(たかさん)
ありがとうございます。おかげさまで励みになります。
これからもどうぞよろしくお願いします。
さて今回は「武士道精神の実践」の第四話といたしまして、明治33年の義和団事件における日本軍将兵の活躍について紹介します。
一夜にして戦場と化した北京市街、厳しい籠城戦(ろうじょうせん)の最中に欧米列国の軍人や外交官たちが目の当たりにして、深い感銘を受けた「日本軍人の武士道精神」。日本人の高貴な精神文化は、西洋の人たちにも通ずるものであることがわかります。
さあ、きょうも【武士道精神入門】をお楽しみください。
その前に。。。
【第18回】武士道精神の実践:柴五郎中佐と北京の日本兵たち
ロシアの東方進出と義和団事件
十九世紀の末、不凍港を求めて東アジアに目を向け始めたロシアは、1891年に大陸を横断するシベリア鉄道の建設に着手し、東方進出を本格化しました。東アジアに多くの利権を有するイギリスは、こうしたロシアの動きを警戒し、両国は対立していました。
そのような中で、1900(明治33)年にシナで義和団事件が起こりました。山東省で蜂起した数万の義和団は、宣教師や外交官を殺害し、北京の各国公使館を包囲しましたが、これに対してイギリス、ロシア、日本など八カ国が軍隊を派遣しました。
各国の外交官などが北京に籠城していたとき、会津出身の柴五郎中佐が指揮する日本兵の勇敢さと規律のよさが世界中に報道されました。これにより、イギリスの日本に対する信頼感が増大するとともに、日本に接近することになりました。
柴五郎中佐とマクドナルド公使
義和団の蜂起を知った北京の各国外交団は、清国政府に暴徒の鎮圧を要求する一方、天津の外港に停泊していた各国の軍艦から、約400名の陸戦隊を北京に呼び寄せました。日本からも軍艦愛宕から25名の水兵がこれに参加しました。
北京では、各国公使が協力して居留民やシナ人キリスト教徒の保護にあたりました。義和団が北京に押し寄せる数日前、各国の公使館付き武官や陸戦隊指揮官らがイギリス公使館に集まって、具体的な防御計画を話し合いましたが、その総指揮を取ったのがイギリス公使クロード・マクドナルドでした。
6月13日、公使館区域に約500名の義和団が襲いかかり、さらに隣接するシナ人キリスト教徒の居住区で数千人を惨殺しました。その一週間後には、警備していた清国軍も義和団側について公使館区域を砲撃しました。清の女帝である西太后が義和団側を支持したからでした。
戦いが続く中で、籠城する外国人にも負傷者が出てきました。少しずつ尊い命も奪われていきました。人々は毎晩交代しながら眠り、緊張が解けることはありませんでした。女性や子供も砲撃や銃声に怯え、いつ殺されるかわからない恐怖の中で、生活していました。徐々に食料も乏しくなり、衛生状態も悪くなって、病人も出てきました。
軍人出身のマクドナルド公使は、公使館区域でも最も激しい戦闘を進んで引き受け、わずかな手勢で暴徒や清国兵をことごとく撃退する日本公使館の駐在武官・柴五郎中佐に驚嘆し、柴中佐への信頼を日ごとに増していきました。
共に戦う柴中佐とその指揮下の日本兵たちの勇敢さと礼儀正しさに大いに心を動かされ、深く信頼するようになったマクドナルド公使は、柴中佐にイギリス人義勇兵を指揮させ、そしてイタリア大使館が焼け落ちるとイタリア兵27名も中佐の指揮下に入れました。
日本兵たちの勇猛果敢な奮戦
イギリス兵たちが、シナ人キリスト教徒の居住区から五百人ほどのシナ人を救出してきました。柴中佐は公使館地域の中央北側にある小高い丘に彼らを収容するとともに、協力を得てそこに保塁を築きました。
この丘は、ここを奪われれば、公使館地域全体を見下ろされてしまう大変重要な場所だったのですが、そこを守るだけの兵力がいませんでした。欧米の兵士と違い、日本兵はシナ語で会話をしてくるので、彼らは日本兵に親しみを感じて積極的に協力し、30名ほどが義勇兵となりました。
日本兵とイタリア兵、そしてイギリス人やシナ人の義勇兵による即製の守備隊が陣取るこの丘に、清国軍は連日のように激しい攻撃を加えてながら攻めたててきました。マグドナルド公使は、ここの守備を固めるために、フランス、オーストリア、ドイツなどにも増援の兵を出すように命じましたたが、それぞれ自国民の保護を優先して従いませんでした。
柴中佐が指揮する守備隊の奮戦は、二ヵ月近く続きました。城壁を砲撃して崩し、そこから突入してくる清国兵や義和団を射撃と白兵戦で撃退するという戦いが繰り返されました。6月27日、夜明けから敵は熾烈(しれつ)な総攻撃を行ってきました。清国兵は惜しみなく砲撃し、弾丸を撃ちかけてきます。弾薬が不足している守備隊は、一発必中の精密な射撃に心掛けて応戦しました。
午後3時頃、城壁が大きく崩れて多数の敵兵が喊声(かんせい)を上げながら突入してきました。柴中佐はこの敵を引きつけ、城内に密集したところを一斉射撃をしてなぎ倒しました。敵は20以上の遺体を放置したまま、退却していきました。
このことが、他国軍にも知らされ、大いに士気が高揚されました。
イギリス公使館の地区に数百の清国兵が突入し、危機的な状態になったので、速やかに救援部隊を差し向けて欲しい、とイギリス兵の伝令が柴中佐に伝えにきました。イギリス公使館地区には、各国の婦女子や負傷者が収容されていました。柴中佐は安藤大尉を指揮官とする8名の救援隊を編成し、直ちに向かわせました。
安藤大尉の救援隊は、到着するとすぐ清国兵に一斉射撃を浴びせ、次いで白兵戦で斬りかかり、銃剣で刺突して十数名を倒しました。浮き足立った清国兵は、われさきにと逃げ出しました。安藤隊が残敵を片っ端から掃討し、態勢を取り直したイギリス兵が逃げる清国兵を追撃しました。そして、城壁外で三十名近くの清国兵を倒しました。
これらは皆、苦しいとき、厳しいときこそ一致協力し、その場、その場で最善を尽そうとする日本人の精神的美徳の発露でした。
日本人の姿が欧米人の模範になる
『北京籠城』という本の中で、筆者P・フレミングは柴五郎中佐について次のように書いています。
― 日本軍を指揮した柴五郎中佐は、どの士官よりも有能で経験も豊かであったばかりか、誰からも好かれ、尊敬された。当時、日本人とつきあう欧米人はほとんどいなかったが、この籠城を通じてそれが変わった。日本人の姿が模範生として、皆の目に映るようになった。日本人の勇気・信頼性・そして明朗さは籠城者一同の賞讃の的(まと)となった。数多い記録の中で、一言の非難も浴びていないのは、日本人だけである。―
どのような苦境にあっても冷静沈着な柴中佐の指揮と、明るく忍耐強い日本兵の姿に、共に籠城する各国兵士は大いに士気を鼓舞されました。あるイギリス人義勇兵はとても人間業(わざ)とは思えない光景を見たと言って、こう語っています。
― 隣の銃眼に立っている日本兵の頭部を銃弾がかすめるのを見た。真赤な血が飛び散った。しかし、彼は後ろに下がるでもなく、軍医を呼ぶでもない。「くそっ」というようなことを叫んだ彼は、手ぬぐいを取り出すと、はち巻の包帯をして、そのまま何でもなかったように敵の監視を続けた。―
― 戦線で負傷し、麻酔もなく手術を受ける日本兵は、ヨーロッパ兵のように泣き叫んだりはしなかった。彼は口に帽子をくわえ、かみ締め、少々うなりはしたが、メスの痛みに耐えた。しかも彼らは沈鬱(ちんつう)な表情一つ見せず、むしろおどけて、周囲の空気を明るくしようとつとめた。日本兵には日本婦人がまめまめしく看護にあたっていたが、その一角はいつもなごやかで、ときに笑い声さえ聞こえた。―
― 長い籠城の危険と苦しみで欧米人、とりわけ婦人たちは暗かった。中には発狂寸前の人もいた。だから彼女たちは、日常と変わらない日本の負傷兵の明るさに接すると心からほっとし、看護の欧米婦人は皆、日本兵のファンになった。―
世界に報道された武士道精神
柴中佐は英語とフランス語を自在にあやつって、各国の指揮官たちの意思の疎通をはかりました。また、柴中佐の優れた戦術能力も各国武官の認めるところとなり、作戦を計画するにあたって迷ったときは、いつでも柴中佐に意見を求めるようになりました。
砲兵出身で情報勤務も豊富な柴中佐は、義和団事件以前から北京城及びその周辺の地理を調べ尽しており、間者を駆使した情報網も作り上げていました。また、密使を使って天津の日本軍とも連絡をとりながら、五十五日に及ぶ籠城戦を持ちこたえたのでした。
義和団鎮圧後、各国の軍隊では掠奪、暴行が多発し、その中でも最も甚だしかったのがロシア軍でした。しかし、日本軍ではそのようなことは一切なく、日本兵は皆、規律正しく行動しました。
イギリスのスタンダード紙は、社説で「義和団鎮圧の名誉は日本兵に帰すべきである、と誰しも認めている。日本兵の忍耐強さ、軍規の厳正さ、その勇気はつらつたるは、真に賞賛に値するものであり、かつ他の追随を許さない」と賞賛しました。
同じくロンドン・タイムスもその社説で「籠城中の外国人の中で、日本人ほど男らしく奮闘し、その任務を全うした国民はいない。日本兵の輝かしい武勇と戦術が、北京籠城を持ちこたえさせたのだ」と記しました。
義和団事件の翌年、マクドナルド公使は、夏の賜暇休暇でロンドンに帰ると英国首相ソールズベリー公爵との会見を重ねながら、日本公使館に林董(ただす)公使を訪ねて日英同盟の構想を語り、日本側の意向を打診しました。このように、マクドナルド公使は日本側にイギリス側の熱意を示し、以後のすべての交渉にも立ち会いました。
それからわずか半年後に、日英同盟が締結されたのでした。
(「柴五郎中佐と北京の日本兵たち」終り)
(いえむら・かずゆき)