トーチ作戦とインテリジェンス(16) 長南政義
こんにちは。長南です。
本連載は、トーチ作戦(*)までのフランス領北アフリカにおける、米国務省と共同実施した連合国の戦略作戦情報の役割についての考察です。
(*)1940年から1942年11月8日に実施された、連合国軍によるモロッコおよびアルジェリアへの上陸作戦のコードネーム。トーチとは「たいまつ」の意味
前々回より、ウィリアム・ドノヴァンの略歴について述べています。
1940年7月、ルーズヴェルト大統領は、英国の防衛体制に関する再調査を行わせるために“ワイルド・ビル”ドノヴァンを英国に派遣します。この当時、バトル・オブ・ブリテン(*)と呼ばれる航空戦が英独両軍間で展開されていました。ドノヴァンの任務は、英国がドイツの侵略に耐えうるか否かを調査することにあったのです。
(*)英国本土の制空権獲得を目的とした航空戦
視察を終え米国に帰還したドノヴァンは、英国がドイツ軍の攻撃に物理的に耐えうることが可能であるとの報告をルーズヴェルトに提出しました。
しかし、ドノヴァンの評価は、当時の駐英米国大使ジョセフ・パトリック・“ジョー”・ケネディの分析と全く正反対のものでした。ケネディは、英国が、ナチスの軍事力の前に屈するかもしれないと考えていたのです。
ケネディがナチス・ドイツの軍事力を過大評価した原因は、マインドセットにありました。マインドセットとは、分析官が無意識的にある一定の考え方や思い込みに陥ることです。
ジョー・ケネディは、駐英米国大使でありながら、ヒトラーへの譲歩を主張するなど、ナチス・ドイツ寄りの発言を続けてきました。ジョー・ケネディの心の奥底に存在したナチス・ドイツに対する過大な警戒心が、ナチス・ドイツの軍事力の過大評価につながったのです。
マインドセットの陥穽に落ちたジョー・ケネディの情勢分析とは対照的に、ドノヴァンの情勢分析はバイアスがかかっておらず偏向が少ないものでした。この点が、ルーズヴェルト大統領の目に留まったわけです。
後のCIA長官ウィリアム・ケーシーが指摘しているように、ドノヴァンの英国視察旅行は、ドノヴァンを「ルーズヴェルト大統領にとってただ一人の中央情報局」にする結果をもたらしたのです。
今回も第二次世界大戦参戦直前期のドノヴァンの活躍についてみていきましょう。
では、きょうも【トーチ作戦とインテリジェンス】をお楽しみください。
ドノヴァン、地中海地域に派遣される
1940年11月、ルーズヴェルト大統領は、世界情勢を正確に評価できるドノヴァンの能力を再度使おうと考えた。今回は、地中海地域にドノヴァンを派遣したのである。
ルーズヴェルトは、経済的・政治的・軍事的見地から地中海地域の戦略的評価を実施する任務を引き受けてくれるようドノヴァンに依頼した。ドノヴァンはルーズヴェルト大統領の依頼を躊躇なく引き受けた。ドノヴァンは、米国が参戦することになるであろう世界大戦において地中海地域がどの程度の重要性を持つのかを自分自身の眼で確認する絶好のチャンスだと考えたのである。
ドノヴァンはルーズヴェルトから調査任務を依頼される以前から地中海地域に目を向けていた。すなわち、1940年8月、ドノヴァンは、北西アフリカ地域における米国の権益を確保するためにフランスと何らかの協定を締結すべきであるとルーズヴェルトに述べていたのだ。
ドノヴァンの視察旅行に隠された別の意図
この地中海地域への視察旅行には、隠れた意図があった。視察旅行の途次、ドノヴァンは英国に立ち寄っている。すなわち、この視察旅行は、ドノヴァンによる英国情報機関の視察を兼ねたものであり、さらには英国首相ウィンストン・チャーチルとドノヴァンとの個人的な会談もセッティングされていたのである。
ドノヴァンの英国情報機関視察やチャーチル首相との会談をセッティングしたのが、ウィリアム・“イントレピッド”・スティーヴンソンであった。彼が、英国情報機関の能力をドノヴァンにみせるために、ドノヴァンの英国情報機関視察旅行の旅程をアレンジしたのである。
スティーヴンソンは、英国情報機関とその能力をドノヴァンに見せることで、ドノヴァンが米国においても英国と同様の情報機関を設立したいとの考えを持つようにしむけたのであった。ルーズヴェルト大統領が情報機関に関心を持っていたこともあり、ドノヴァンは、この情報機関視察を非常に熱望していた。
スティーブンソンとは何者か?
スティーヴンソンがドノヴァンの旅程をセッティングしたのには裏があった。1940年末、チャーチルは、カナダ出身の億万長者で、暗号名「イントレピッド(勇猛な)」で知られるウィリアム・スティーブンソンを米国に派遣していた。
スティーブンソンの任務は、インテリジェンスを米英間で共有できるように、米国のインテリジェンス機関を組織化することを支援することにあった。スティーブンソンは、英国外務省パスポート管理官という仮面をかぶって、ニューヨークのロックフェラー・センターにある特別室から任務を行っていた。
チャーチル首相は、当時、情報調整官を務めていたドノヴァン大佐がルーズヴェルト大統領と近い関係にあり、インテリジェンス機関の必要性を正確に理解していることを、諸情報から把握した。そのため、チャーチルは、スティーブンソンに対し、ドノヴァンとの協働関係を構築するように指示していたのである。
ドノヴァンによる大統領への視察結果報告とその意味
1940年12月6日、ドノヴァンは、スティーヴンソンと共にロンドンへ向けて米国を出発した。ドノヴァンは地中海地域視察の前に英国に立ち寄り英国の情報機関を視察している。その後、ドノヴァンは、ジブラルタル、マルタ、エジプト、ギリシャ、ユーゴスラビアおよびポルトガルを訪問し、その旅行期間は3か月半にも及んだ。
ドノヴァンが米国へ帰国したのは、1941年3月18日のことであった。翌日、ドノヴァンは海軍長官フランク・ノックスと共にホワイト・ハウスを訪問し、ルーズヴェルト大統領に対して視察結果を報告している。この報告は、ドノヴァンによる一連の報告の最初のものであった。
大統領との一連の会談において、ドノヴァンは、次の3つの点を強調した。
1、地中海およびその周辺地域における輸出問題の重要性と、輸出に影響を与えるドイツ海軍およびイタリア海軍の戦略的重要性について。
2、フランス領北西アフリカの情勢が米国に対して危険とチャンスの両面で大きな意味を持っていること。
3、戦争における心理的要素および政治的要素の重要性と、国家政策を計画・実行する際にこれらの要素を最大限利用することの必要性について。
ドノヴァンによる説明と情勢見積りは、枢軸側が地中海地域において行っている活動と枢軸側の活動がもたらす影響に関する明確な理解をルーズヴェルト大統領に提供した。
もちろん、本連載ですでに指摘したように、ルーズヴェルト大統領は同じような報告をヴィシーに駐在するロバート・マーフィーおよびそのスタッフから受けていたが、マーフィーとは違った系統から同じような内容の情報を得ることで、情報内容の確実性が確認されたのである。
つまり、ルーズヴェルト大統領は、米国が大戦に参戦した時に、米国の最初の目標として北アフリカを攻撃するべきか否かに関する決定を下すために、マーフィーとそのスタッフおよびドノヴァンという信頼できる二つの情報源から情報を得ることができることがはっきりしたのである。
いくら信頼できる情報源といっても単独の情報源だけでは情報見積り誤りや偏向があった場合、情報の失敗が起こることになるが、信頼できる二つの情報源をもつことでそうした弊害を回避することが可能なのである。
多くの歴史家が、ルーズヴェルト大統領がトーチ作戦の実施を決断するに際し、チャーチル首相がその決断に与えた影響力の大きさについて書いている。
しかしながら、ルーズヴェルト大統領は、1941年12月に開かれた最初の米英首脳会議であるアルカディア会談より以前に、フランス領北アフリカを最初の攻撃目標とすることをすでに決心していたのである。
そして、このルーズヴェルト大統領の決断の裏には、ヴィシーに駐在するマーフィーおよび海軍武官ロスコー・H・ヒレンケッター海軍中佐による報告と、ドノヴァンの視察報告とが存在したのである。
次回は、情報調整局(Office of the Coordinator of Information, OCI)とドノヴァンとの関係について述べることとする。
(以下次号)
(ちょうなん・まさよし)