武士道精神入門(13)–武士たちが遺した教え:山岡鉄舟 『鉄舟二十訓』– 家村和幸
▽ごあいさつ
こんにちは。日本兵法研究会会長の家村です。
今回は「武士たちが遺した教え」の第九回目といたしまして、幕末から明治初期の剣術の達人・山岡鉄舟の自省訓『鉄舟二十訓』を紹介します。
また、『鉄舟二十訓』に加えて“無刀流”の極意をきわめ、生涯を武士として生きた山岡鉄舟という人物についても簡単に触れてみたいと思います。
それでは、本題に入ります
【第13回】武士たちが遺した教え:山岡鉄舟 『鉄舟二十訓』
▽鉄舟二十訓
一、 うそを言うな。
二、 君の御恩を忘れるな。
三、 父母の御恩を忘れるな。
四、 師の御恩を忘れるな。
五、 人の恩を忘れるな。
六、 神仏と年長者を粗末にしてはならない。
七、 幼者をあなどるな。
八、 自分の欲しないことを人に求めるな。
九、 腹を立てるのは道に合ったことではない。
十、 何事につけても人の不幸を喜んではならない。
十一、力の及ぶかぎり善くなるように努力せよ。
十二、他人のことを考えないで、自分に都合のよいことばかりしてはならない。
十三、食事のたびに農夫の辛苦を思え。すべて草木土石でも粗末にしてはならない。
十四、ことさらお酒落(しゃれ)をしたり、うわべを繕(つくろ)うのは、わが心に濁りあるためと思え。
十五、礼儀を乱してはならない。
十六、いつ誰に対しても客人に接する心がけであれ。
十七、自分の知らないことは、誰でも師と思って教えを受けろ。
十八、学問や技芸は富や名声を得るためにするのではない。おのれを磨くためにあると心得よ。
十九、人にはすべて得手と不得手がある。不得手を見て一概に人を捨て、笑ってはならない。
二十、おのれの善行を誇り顔に人に報せるな。わが行いはすべてわが心に恥じぬために努力するものと心得よ。
▽「不動心」と「本来無一物」
天保7(1836)年、幕臣の子として江戸で生まれ、山岡家の養子となった山岡鉄舟は、幼少の頃から剣術に励んだ。養父の山岡静山は、鎗術をもって天下第一と言われていた人物であったが、息子・鉄舟には自分の功績を語ったり、自分を宣伝したりすることを戒めていた。そして、自らの体験から、処世について次のように教えていた。
「人間の行為は、道によってすると、勇気が出てくる。しかし、少しでも策をめぐらすと、いつしか気ぬけするものだ。」
つまり、真の情熱は誠意から発する、ということであり、この教えが山岡鉄舟の生き様そのものとなった。
剣術を学びはじめて二十年ほどたって、鉄舟は浅利義明という剣の達人に師事した。義明は、伊藤一刀齋の流れを汲み、「不動心」を呼吸に凝らして、相手が撃ってくる前に「勝機」を知ることができたという。このような良い師に事えた鉄舟は、熱心に修行を積んだ。
その頃、鉄舟は道場にて竹刀を抱いたまま眠るのが常であった。黙然として「不動心」を凝らしつつ眠るのが、若き鉄舟にとっての修行なのであった。それは、形より心に、術より道に入るということであった。
眠っている鉄舟を見て、師の義明は、にやりと笑いながら突然と竹刀の一撃を浴びせた。発するよりも先きに、鉄舟は立上って身構えていたという。動静一如、このような心境こそ「不動心」の賜(たまもの)であり、ひとえに平生からの心がけと工夫にあった。
その後、鉄舟は幕府講武所の剣術師範を務め、やがて「春風館」という道場を開いて数多くの門弟を従え、“無刀流”という剣の流儀を自得した。この無刀流は、剣と禅の修養から生み出した「剣禅一如」の極意である。これについて、鉄舟は次のように語っている。
無刀とは、心の外に刀なきなり。
本来無一物なるがゆえに、敵と相対するとき、前に敵なく、後に敵なく、
刀によらずして心をもって心を打つ。
これを無刀という。
「本来無一物」とは、禅の「無の思想」である。つまり、人は生まれたときも死ぬときも裸である。自分のものにしたいと欲張ることから悩むのであり、もともと「何もない」と思えば地位や名誉や財産といった「欲」に惑うこともなくなる、という意味である。
▽江戸城無血開城の約束
慶応4(1868)年3月、有栖川宮(ありすがわのみや)を大総督にいただく官軍は、すでに駿府(静岡)まで進出し、同月15日を期して江戸へ進撃することになっていた。これを実行すれば、百万都市・江戸は火の海となり、大惨事となることが予測された。
3月5日、山岡鉄舟は幕府の全権を握っていた勝海舟を訪ね、主君の危急をなんとかして救うため、江戸総攻撃を中止するよう東征大総督に嘆願したいとの意志を告げた。一目で鉄舟が非凡の人物であることを見抜いた勝海舟は、かねてから相互に尊敬し合っていた官軍の参謀・西郷隆盛に手紙を書き、それを鉄舟に託した。
3月9日、徳川慶喜公の命を受けた山岡鉄舟は、たった一人で官軍陣営に入り、駿府城にあった征討総督府へ西郷隆盛を訪ねてきた。初めて西郷隆盛に対面した際の対話は次のとおりであった。
西郷「江戸からここまで、街道の官軍の中を、どうして来られたか。」
鉄舟「やはり歩いて来もうした。」
西郷「それは無論でござろうが、官軍がいたる所に居ってござろう。」
鉄舟「左様、なかなか立派な服をきて、多勢の兵隊が、行列などしておりました。」
卒然として“不動心”のまま臆せずに申し述べる鉄舟を、西郷隆盛が後年、勝海舟に次のように語っている。
「山岡の心中、敵も味方もなかったらしい。あのように命も名も金もいらぬ人間は、始末に困る。が、あれでないと、天下の大事は共に語れぬもの。あの人は、なかなか腑(ふ)のぬけた所があるようじゃ。」
この会見で、山岡鉄舟は、西郷隆盛から江戸城無血開城の約束をとりつけた。それから四日後の3月13日、西郷隆盛と勝海舟の「江戸城明け渡し会談」が薩摩藩邸で行われ、こうして江戸は戦禍をまぬがれることになった。
▽道の実践と山岡鉄舟の最期
明治5(1872)年、山岡鉄舟は西郷隆盛に懇願されて明治天皇の侍従となり、その後十年間その職務に就きながらも、俸給は生活に困った人にほとんどあげてしまい、死ぬまで清貧を通したという。
明治20(1887)年、鉄舟は四谷仲町の道場で講義した中で、自らの武士道について次のように語った。
「拙者(せっしゃ)の武士道は、仏教の理より汲(く)んだことである。それも、その教理が真に人間の道を教えつくしているからである。まず世人が人を教える忠、孝、仁、義、礼、智、信とか、節義、勇武、廉恥とか、あるいは同じようなことで、剛勇、廉潔、節操、礼儀とか、言いかえれば種々ありて、これらの道を実践窮行(きゅうこう)する人を、すなわち武士道を守る人というのである。」
つまり、鉄舟のいう武士道とは、「理論ではなくて実践そのものである」ということであった。
誰とでも分け隔てなく交際した鉄舟の邸宅には、政治家や役人、商売人から侠客、俳優、落語家まであらゆる人々が集まってきた。その様子を見て勝海舟は「山岡の化物屋敷」と呼んでいた。
明治21(1888)年に鉄舟が胃ガンで倒れると、臨終の床には門弟たちをはじめ多くの人々が集まった。鉄舟は門弟の落語家・三遊亭円朝に「俺はまだ死なん。皆、退屈だろうから一席やれ」と命じた。円朝が涙を流しながら用意をしていると、鉄舟は「そろそろだな・・・」と言って死に装束に改め、左手に数珠(じゅず)を持ち、右手に団扇を取って座禅を組んだ。そこへ勝海舟が見舞いに訪れたので、鉄舟の子の直記が玄関に出迎えた。
海舟「父上の御病気は、どうかの。」
直記「ただ今、死ぬと申しております。」
海舟「ほう、そうか。」
勝海舟が奥へ行ってみると、鉄舟が眼を閉じたまま悠然と坐(すわ)っている。
「おお、御臨終ですか。」と海舟が声をかけて訊(き)くと、鉄舟は眼をひらいて言った。
「よくこそお出で下された。ただ今、涅槃(ねはん)の境に進むところでござる。」
海舟が「よろしく御成仏あれ。」と言うと、鉄舟はそのまま往生をとげたという。享年五十二歳
(「山岡鉄舟 『鉄舟二十訓』」終り)
(いえむら・かずゆき)