トーチ作戦とインテリジェンス(9) 長南政義

2019年2月6日

【前回までのあらすじ】
本連載は、1940年から1942年11月8日に実施されたトーチ作戦(連合国軍によるモロッコおよびアルジェリアへの上陸作戦のコードネーム。トーチとは「たいまつ」の意味)までのフランス領北アフリカにおける、米国務省と共同実施された連合国の戦略作戦情報の役割についての考察である。
前回は、米国の外交官がおこなった諜報活動について述べた。
トーチ作戦をめぐる諜報活動においては、米国の国務省が実施した諜報活動が重要な役割を果たしていた。トーチ作戦計画立案と実施に大きく寄与した二人の人物として、代理大使ロバート・D・マーフィーと海軍武官ロスコー・H・ヒレンケッター海軍中佐がいる。
彼ら二人と彼らが収集し本国に送ったヴィシー政権に関するインフォメーションが、ナチスドイツに対する米国最初の軍事行動となる作戦計画の策定と実施に大きく寄与した。
ヒレンケッターは、アナポリス海軍兵学校を卒業し、1946年には日本人にもなじみのある戦艦ミズーリの艦長を務めた人物である。また、1947年5月1日から1950年10月7日かけてCIA長官を務めた人物であり、情報収集・分析能力に秀でた人物であった。
ヒレンケッターは、1940年6月終わりから7月初めにかけてフランス領北アフリカを旅行しているが、このヒレンケッターのフランス領北アフリカ旅行は、フランス領モロッコおよびアルジェリアのフランス軍と現地政府の情況を評価するために行われたものであった。
ヴィシーに帰還したヒレンケッターは、マーフィーと協力してヴィシー政権の政治・外交問題に関する評価報告書を作成した。ヒレンケッターによるフランス領北アフリカの情況に関する最初の報告書は、1940年8月にワシントンの国務省に送付された。
今回は、ルーズヴェルト大統領とマーフィーとの密談と、ルーズヴェルトがマーフィーに与えた密命について述べる。
【ロバート・マーフィー、駐ヴィシー米国大使館の責任者となる】
ルーズヴェルト大統領は、駐ヴィシー米国代理大使マーフィーの報告書を読んでマーフィーに目をつけた。ルーズヴェルト大統領は、ヴィシー・フランスにおけるマーフィーのコネクション、および彼の情報収集・分析能力を使おうと考えたのである。
マーフィーは、1894年、ミルウォーキーでアイルランド系アメリカ人のカトリック信者の家に生まれた。マーフィーは、ミルウォーキーのイエズス会が運営するマーケット大学で法学士の学位を得た後、ジョージ・ワシントン大学で修士号を得ている。卒業後、マーフィーは、アメリカ合衆国郵便公社に事務員として勤務し、その後、外交官に転じ、ベルン、チューリッヒ、ミュンヘン、セビリア、パリに駐在した。
マーフィーは、自身の回顧録『戦士の中の外交官』(原題:Diplomat Among Warriors)の中で、以下のように述べている。
「こうして私は、1940年7月3日、正式にわが大使館の責任者となった。それは、長い歴史を有する米仏関係において、もっとも困難な時期の一つに当たっていた」。
既述したように、1940年7月3日は、英国海軍がフランス領北アフリカに停泊していたフランス艦隊を攻撃したメルセルケビール海戦の日であった。フランス領北アフリカにおける英国によるさらなる軍事・諜報行動の重大な支障となり、フランス領北アフリカの現地政府に対する連合国の支援計画を台無しにしたのは、英国海軍によるフランス艦隊に対する攻撃であった。したがって、フランス領北アフリカに駐留するフランス軍部隊を利用してナチスドイツに打撃を加える計画を実現するには、英国ではなく米国がその計画の中心になる必要があったのである。
運の悪いことにマーフィーは、このメルセルケビール海戦のあった当日に、成立したばかりのヴィシー政権の複雑な内情を把握する責任を有する、ヴィシー駐在の米国外交官の責任者となり、さらには、ヴィシー政権の内情を報告するためにワシントンに召還されることとなった。
【マーフィー報告書に興味を示し、彼を召還したルーズヴェルト大統領の意図】
1940年9月中旬、ルーズヴェルト大統領は、マーフィーに対しワシントンに戻るよう要請した。国務次官のサムナー・ウェルズは、マーフィーに対して、大統領がフランス領北アフリカに関する報告書を精読し、大統領自身がマーフィーに会いたがってマーフィーを召還したのだと告げた。
この当時のルーズヴェルト大統領は、本連載でも解説した独仏休戦協定のユニークな特徴に注目して、フランス領北アフリカにおいて米国が何らかの直接行動に出ることができるのではないかという可能性に興味をそそられていた。しかし、当時、米国はいまだ中立を保っていたため、この計画は大統領の個人的計画であり、秘密に保たなければならなかった。
この当時のフランス領北アフリカは、ヴィシー政権による統制やドイツ・イタリア合同休戦監視委員会による限定的な監視活動から、半独立した状態にあった。ドイツ・イタリア合同休戦監視委員会が、フランス領北アフリカで行っていた活動といえば、枢軸国の戦争継続にとって死活的に重要な、ゴムラテックス、穀物および石油のような資源のドイツおよびイタリアへの輸出を監視し、反枢軸的活動の動向に目を光らせるだけであった。
ルーズヴェルト大統領は、マーフィーやヒレンケッターなどの人物から提出された報告書に基づき、フランスがナチスドイツに対する戦争を再開するために最も適した場所がフランス領北アフリカであると信じるようになった。すなわち、ルーズヴェルト大統領が、マーフィーをワシントンに召還した意図は、ナチスドイツに対する北アフリカでのフランス軍を利用した私的計画が実現する可能性を検討することにあったのである。
【ルーズヴェルトがマーフィーに与えた密命:マキシム・ウェイガンと接触せよ】
マーフィーはワシントンに到着するや、ホワイトハウスの大統領執務室に招かれた。大統領執務室に入ったマーフィーの注意をひいたものは、大統領の前に開かれてあったフランス領北アフリカおよび西アフリカの全地域がえがかれた大きな地図であった。
マーフィーと対座したルーズヴェルト大統領は、マーフィーに対し、フランス領北アフリカに駐留するフランス軍将校を支援する方法について長いこと考えていたのだと話した。マーフィーは、ルーズヴェルトの質問に答えて、ヴィシーに駐在するヒレンケッターや外交官から入手した情報を提供した。マーフィーが提供した情報はルーズヴェルトにとって非常に有益な内容であった。
会談中、ルーズヴェルトは、マーフィーに対して、フランス軍北アフリカ駐留軍総司令官兼アルジェリア総督を務めるマキシム・ウェイガンに接触せよとの密命を与えると共に、「ウェイガンはその地域において本当に権威を持っているのか?あの老兵は将来展望を持っているのか?米国はウェイガンを勇気づけることができるのか?」という点に関し確認を求めた(『戦士の中の外交官』、原題:Diplomat Among Warriors)。
さらなる議論の後、ルーズヴェルトは、マーフィーに対して、ヴィシーに帰還してフランス領北アフリカを念入りに視察し、その結果をルーズヴェルトに詳細に報告するように命じて会談を終了させた。
こうして、ルーズヴェルト大統領の個人的な計画は、米国政府のフランス領北アフリカ政策として具現化したのである。この会談において、ルーズヴェルトは、マーフィーに対して、「もし、君が、アフリカで特に関心を惹くようなことを知ったならば、その情報を私に送りたまえ。国務省のチャンネルを通そうなんて考える必要は無い」とも述べたという(『戦士の中の外交官』、原題:Diplomat Among Warriors)。
ルーズヴェルトのマーフィーに対する信頼の高さがうかがえると同時に、当時まだ中立を保っていた米国がこの政策をいかに極秘裏に展開したかったかがうかがえるエピソードであるといえよう。そして、マーフィーにしてみれば、ルーズヴェルト大統領からこのようなお墨付きをもらうことで、ワイルド・ビル・ドノヴァンのように、ルーズヴェルト大統領の「私的特使」の地位を手に入れたといえるわけである。
次回は、ヴィシーに戻ったマーフィーの活動について述べることとする。