トーチ作戦とインテリジェンス(2)

2019年2月6日

【前回までのあらすじ】
前回から、1940年から1942年11月8日に実施されたトーチ作戦(連合国軍によるモロッコおよびアルジェリアへの上陸作戦のコードネーム。トーチとは「たいまつ」の意味)までのフランス領北アフリカにおける、米国務省と共同実施された連合国の戦略作戦情報の役割についての考察をはじめた。
欧米の研究者の間では、トーチ作戦においてOSS(Office of Strategic Services:戦略情報局)の果たした役割について批判が存在する。多くの研究者が指摘しているように北アフリカに派遣された情報要員は全くの素人であった。しかしながら、OSSの活動は、米国人らしい独創性を通じて、第二次世界大戦における多くのスパイ活動と同様に、目的達成という点では作戦的成功を収めた。
フランス領北アフリカへの侵攻作戦はOSSが実施した最初のAFOであった。上陸作戦実施前に展開されるアドバンス・フォース・オペレーション(Advance force operations:AFO 敵地奥深くに潜入し情報収集や破壊工作などを実行する作戦)や情報収集の面で、OSSは成功を収めた。
1942年11月8日、米国陸軍・海軍は、第二次世界大戦期間中、米軍にとり初めてとなる欧州戦域での連合水陸両用作戦を実施した。しかしながら、インテリジェンスに関する活動はトーチ作戦から遡ること約二年前から開始されていたのであった。この活動に参加した人物たちが北アフリカにおける作戦の基礎を作ったのである。
なかでも、国務省の外交官ロバート・ダニエル・マーフィーの活躍は目覚ましかった。マーフィーは、ルーズヴェルト大統領の密命を受け、個人使節としてヴィシー政権の支配するフランス領北アフリカに赴き、連合国が計画していたトーチ作戦のため下準備を行った。マーフィーはアルジェリアに駐屯するフランス軍関係者と接触し、連合国の上陸作戦に協力を取り付けたのだ。
真珠湾攻撃までの米国の外交方針は孤立主義であったが、長い孤立主義の時代は、米国政府機関に多くの損失を与えていた。特に、孤立主義が米国のインテリジェンス機関に与えたダメージは大きなものがあった。米国のインテリジェンス機関は、たいていの欧州主要国のそれと比較して、能力の面でも、人員の質の面でも、世界で発生する事件に対する情報収集・分析能力の面でも後れをとっていたのである。
今回は、米国インテリジェンス機関の未熟さに関して補足したうえで、ドイツの外交・軍事政策が連合国側にトーチ作戦実施を決意させた背景について述べる。
【米国のインテリジェンス機関は「原始的で不適切だ」 ~米国務省官僚の指摘~】
 では、米国のインテリジェンス機関はどの程度未熟であったのか。この当時の米国のインテリジェンス機関に関して、パトリック・オドネルはその著書『諜報員、スパイおよび破壊工作員 ~第二次世界大戦におけるOSSの人々の語られざる話~』(Operatives, Spies, and Saboteurs: The Unknown Story of the Men and Women of World War II’s OSS)のなかで次のように述べている。
「第二次世界大戦以前、米国による秘密戦争の行使は限定されたものであった。独立戦争期や南北戦争期には米国にもスパイが存在したが、米国のインテリジェンス機関は、世界の他の強国のそれと比較してはるかに劣るものとなっていた。その様子を国務省の上級官僚が『1940年におけるわれわれのインテリジェンス機関は、原始的で不適切なものであった [中略] 米西戦争の伝統に縛られて運営されていたのである』と述べている」。
【トーチ作戦開始までのドイツをめぐる国際環境】
1939年9月、ドイツはポーランドに対して軍事侵攻を開始した。その心理的波及効果は欧州中に及び、世界はドイツの快進撃に打ちのめされた。ヒトラーは外交的に迅速に行動し、ドイツ陸軍はポーランドで決定的成功を収めたのである。さらに、ソ連までもが、ポーランドの東半分を占領することによって、ヒトラーの軍事的野心を手助けした。
1940年5月、ドイツは再度侵略を開始し、今度は西方のベルギー、オランダおよびフランスへと軍を進めた。侵攻開始から6週間以内で、ドイツ軍はパリに入城し、アルベール・ルブラン大統領率いる第三共和制を打倒した。1940年6月18日、アンリ・ペタン元帥がフランス首相に任命されてからわずか二日目のこの日、ペタンは彼の祖国を救済するためにヒトラーに休戦を申し込んだ。
【独仏休戦協定と三つのフランス政府】
1940年6月22日、ドイツとフランスは休戦協定に調印し、休戦協定は6月25日に発効した。ウィリアム・シャイラーの『第三帝国の興亡』によれば、フランスに課せられた休戦協定の内容は第一次世界大戦終結時のドイツに課せられたものより厳しい内容であった。休戦協定の主な条件は、
1、フランスは国土の5分の3に当たる、ジュネーブとトゥールとスペイン国境を結ぶ線の北西側をドイツの占領に委ねる。
2、英国海峡と大西洋に向いたすべての港湾をドイツ海軍に引き渡す。
3、1日あたり約4億フランの占領経費を負担する。
などというものであった。この休戦協定の条件により、2つのフランス政府が生まれた。すなわち、1つはヴィシーに本拠を置くドイツ傀儡政権であるヴィシー政府で、ペタン元帥が主席を務めた。もう1つは、当初、マキシム・ウェイガン大将が指導する半独立的なフランスの植民地たるフランス領アフリカであった。ウェイガン大将は第一次世界大戦におけるフランスの英雄であり、敗色濃厚の1940年5月には無能さを露呈したモーリス・ガムラン大将の後任者として連合軍総司令官に就任した人物である。この人事は、「ガムランが去り、更に爺のウェイガンが来た」と評された。
ドイツ・イタリア連合休戦監視委員会はこの植民地政府を監視していたが、ドイツ軍そのものはフランス植民地の大部分を占領しなかった。ヴィシー政府が「反逆者」と認定したシャルル・ドゴール将軍は、フランスにとって第三の政府である自由フランスをロンドンに設立した。1940年6月28日、自由フランスは、英国政府により承認された。
休戦協定では、フランス海軍は武装解除されることとされたが、ドイツ側が譲歩し、海軍艦艇の引き渡しは要求されなかった。これは、ヒトラーが、フランスに対して過剰に圧力をかけた場合、フランスがフランス領アフリカで戦闘継続を決意する可能性があると考えたからであった。さらに、休戦協定は約12万人のフランス軍が植民地防衛のためにフランス領北アフリカに駐留することを認めていた。
【ドイツによる非占領地域侵攻の噂とドイツ外交官アウエルの発言がもたらした米仏の協定
1940年から1941年にかけて、休戦協定の一部として、ドイツは、戦争継続のための物資として、フランス領北アフリカから、ゴムラテックス、食糧および石油の供給を要求しただけであった。そのせいもあってか、ドイツの意図は翌年中にフランスの非占領地域やフランス領北アフリカに侵略することにあるという噂が、猛烈な勢いで広まった。
しかし、ドイツの職業外交官テオドール・アウエルは、駐仏米国代理大使ロバート・マーフィーに対して、この噂はヒトラーが表明した1941年に関する彼の意図には含まれていないことを保証した。
マーフィーが、米仏間の経済協定をウェイガン大将との間で交渉中であったので、アウエルはマーフィーに次のように述べた。
「休戦協定委員会のイタリア人を更迭するようにドイツ外務省を説得した。もうまもなく休戦協定監視の仕事を適切に実施するためにドイツ人がここに来ることになるであろう」。
しかし、マーフィーによれば、アウエルは、「彼がベルリンの心からの関心を掻き立てることができなかった」とも発言していた。
交渉中の協定とは、1941年2月に締結されるマーフィー・ウェイガン協定のことであるが、マーフィーに対してアウエルが発した「彼がベルリンの心からの関心を掻き立てることができなかった」というコメントは、経済協定の一部としてなされた諸提案のすべてを、ドイツが年内にフランスの非占領地域およびフランス領北アフリカに侵略するであろうとの仮定と噂に基礎をおいて交渉を進めていたマーフィーとウェイガンにとって重要なものであった。
というのも、その存在が疑われていたドイツによる非占領地域侵略計画とドイツの野心が、フランス人指導者をして、米国政府との譲歩に駆り立てたからである。フランス領北アフリカは、当時、英国によって経済封鎖が行われていたが、マーフィー・マキシム協定はこの地域に対するアメリカからの輸出を認める内容であった。
【ロンメルのアフリカ着任と独ソ開戦】
1941年2月12日、エルヴィン・ロンメルが北アフリカのトリポリに到着し、その2日後、ロンメル指揮下のアフリカ軍団の先遣部隊が北アフリカに到着した。ロンメルの任務はエジプトに所在する英国陸軍第8軍を撃破してスエズ運河を確保し、英国のインドへの輸送路を遮断することにあった。1942年春までに、ロンメルは、英国陸軍第8軍を敗走させ、エジプトのカイロ近郊まで押しやることに成功し、自身の任務をほとんど達成しかけた。
ロンメルがリビヤとエジプトで英国に対する作戦を開始してから約4か月後の1941年6月22日ドイツが最近まで不可侵条約を締結していたソ連に侵攻し、東部戦線が突如として出現した。
1941年12月までの間にソ連軍に対してドイツ軍がおさめた大成功は、ヨシフ・スターリンが、ヴャチェスラフ・モロトフ外務人民委員を派遣し、フランクリン・ルーズベルト米国大統領とウィンストン・チャーチル英国首相と会談させる決断をもたらした。モロトフを介してスターリンは、東部戦線におけるドイツ軍による軍事的圧力を緩和するために、第二戦線を開くように米英の首脳に要求したのである。
ソ連に対するヒトラーの攻撃、リビヤおよびエジプトにおける英国に対するロンメルの軍事的成功、およびフランス本土侵攻のためには人員・物資両面で不足していたたこと、こういった要因のため、連合国側は、スターリンが要求する第二戦線をフランス領北アフリカに開くしか選択肢が残されていなかったのである。
次号では英国について考察する。
(以下次号)
(長南政義)
●著者略歴
長南政義(ちょうなん まさよし)
戦史研究家。國學院大學法学研究科博士課程前期(法学修士)及び拓殖大学大学院国際協力学研究科安全保障学専攻(安全保障学修士)修了。国会図書館調査及び立法考査局非常勤職員(『新編 靖国神社問題資料集』編纂に関与)、政策研究大学院大学COEオーラルヒストリー・プロジェクト・リサーチ・アシスタントなどを経る。
戦史研究を専門とし、大学院在学中より日本近代史の権威・伊藤隆の研究室で、海軍中将中沢佑などの史料整理の仕事に従事、伊藤隆・季武嘉也編『近現代日本人物史料情報辞典』3巻・4巻(吉川弘文館)で大山巌や黒木為もと(木へんに貞)など陸海軍軍人の項目を多く執筆。また、満洲軍作戦主任参謀を務めた松川敏胤の日誌を発掘し初めて翻刻した。
主要論文に「史料紹介 陸軍大将松川敏胤の手帳および日誌──日露戦争前夜の参謀
本部と大正期の日本陸軍──」『國學院大學法政論叢』第30輯(2009年)、「陸軍
大将松川敏胤伝 第一部 ──補論 黒溝台会戦と敏胤」『國學院大學法研論叢』第38
号(2011年)などがある。
著書
最新刊  『復刻版日清戦況写真』 
『坂の上の雲5つの疑問』