陸上自衛隊東部方面隊
東部方面隊(東部方面軍)は1個師団と1個旅団および16の方面直轄部隊及び機関を隷下に置き、管内33個の駐屯地、3個分屯地で展開している。
東部方面隊(東部方面軍)の任務は関東・甲信越及び静岡県の1都10県の防衛・警備。そのため、予測できないが急にやってくる危機に対し、いつでも対応できる態勢を取ることが必要となる。危機管理のための最小限の備えとして、1個師団と1個旅団および13の方面直轄部隊を保有している。
これらの部隊の存在と、日々たゆまぬ訓練により実効性を高めることで、戦後60有余年にわたり外国からの侵略を未然に防止してきた。また、訓練で培われた実動能力や組織力は、災害派遣や各種地域行事支援等において地域及び地域住民に大きく寄与している。
編成
東部方面隊(東部方面軍)は、中核となる方面総監および方面総監部を朝霞(東京)に置き、練馬第1師団、相馬原第12旅団および、古河第1施設団(工兵旅団)、東部方面混成団(混成旅団 武山)、松戸第2高射特科群(高射砲兵連隊)、東部方面通信群(朝霞 通信連隊)、東部方面航空隊(立川)、東部方面後方支援隊(朝霞)、東部方面衛生隊(朝霞)、東部方面会計隊(朝霞)、東部方面指揮所訓練支援隊(朝霞)、東部方面情報処理隊(朝霞)、東部方面総監部付隊(朝霞)、東部方面音楽隊(朝霞)などの部隊が、33個駐屯地、3個分屯地で展開している。管内には11個の地方協力本部も配置されている。
特性
東部方面区は、我が国の面積の約20%を占め、長い海岸線と伊豆諸島、小笠原諸島及び佐渡島をはじめ481の島嶼(うち有人島16)を有する。また、我が国の人口の約40%、国内総生産(GDP)の約40%強を占め、我が国の政治・経済の中枢である首都東京を含む重要な地域である。警備区域には、南鳥島、沖ノ鳥島、硫黄島も含まれる。
首都直下地震及び東海地震時は大臣命令により統合任務部隊として大規模震災に対処する。
東部方面総監 渡部陸将 「着任の辞」
この度、東部方面総監を拝命した渡部陸将である。
我が国の政治・経済・文化の中枢である一都十県の防衛警備の任につく名誉と重責を改めて痛感しているところである。
さて、東部方面総監着任にあたり、要望事項を「任務完遂」とする。諸官承知の通り、我々の行動の原点は任務であり、与えられた任務を完遂するために我々は存在している。自衛隊には、武力攻撃事態への対処に代表される防衛・警備、災害派遣、国際平和協力活動などの任務を付与されるが、その任務はかつてなく多様で複合的なものとなっている。
自衛隊は、今回の東日本大震災における災害派遣において、国民の高い評価を受けたが、これは諸官の弛まぬ訓練の賜物であり、参加隊員の大活躍に敬意を表するものである。しかしながら、我々の災害派遣遂行能力は、完全なものではなく、まだまだ改善の余地がある。そして災害派遣は、我々にとって重要な任務ではあるが、比較的易しい任務であり、自衛隊は、単なる災害派遣自衛隊であってはならない。我々が最も重視して備えなければならない厳しい事態は、武力攻撃事態である。武力攻撃事態において、与えられた編成・装備・実員でいかなる戦いを遂行し、侵攻する敵を撃破するかが問われている。この戦いは生死をかけた厳しい戦いにならざるを得ない。
与えられた厳しい任務を完遂するために、諸官一人一人は、心身ともに健康で優れたプロフェッショナルな自衛官でなければならない。そのために、諸官は、「錬磨無限」、訓練に訓練を重ね、更に更に成長しなければいけない。個人個人が日々成長することにより、組織としての東部方面隊の成長もある。諸官の成長及び方面隊としての成長のために、総監は何をなすべきかを常に追求していく所存である。
以上、総監としての所信の一端を述べたが、今後、諸官らと共に、日本の最後の砦として、与えられた全ての任務を完遂する強靭な東部方面隊を創造することを決意し、着任の辞とする。
平成23年8月5日
東部方面総監 陸将 渡部悦和
略歴
昭和35年(1960年):東部方面総監部が市ヶ谷駐屯地に開庁。
昭和37年(1962年):隷下の第1管区隊が第1師団及び第12師団へと分割・再編。
昭和45年(1970年)11月25日:三島由紀夫事件。
平成元年(1989年)2月24日:大喪の礼に参加する。
平成2年(1990年)1月23日:即位の礼に参加する。
平成4年(1992年):カンボジアPKOに要員派遣。
平成5年(1993年):モザンビークPKOに要員派遣。
平成6年(1994年):方面総監部を市ヶ谷駐屯地から朝霞駐屯地に移転。
平成7年(1995年):阪神・淡路大震災・地下鉄サリン事件に災害派遣。
平成9年(1997年):ゴラン高原PKOに輸送隊派遣。日米共同方面隊指揮所演習(YS-37)に参加
平成13年(2001年):第12旅団の改編及び第6地対艦ミサイル連隊の新編。
平成14年(2002年)3月:第1師団の改編。方面直轄として後方支援隊及び衛生隊を新編。
平成15年(2003年)3月:東部方面調査隊を廃止。方面指揮所訓練支援隊を新編。
平成16年(2004年):新潟県中越地震への災害派遣。
平成18年(2006年):イラク人道復興支援活動に要員を派遣(第9次:第1師団主力、第10次:第12旅団主力)
平成19年(2007年)3月28日:第1空挺団及び第101化学防護隊(第101特殊武器防護隊に改称)が中央即応集団隷下に編成変え。
同7月~8月:新潟県中越沖地震に災害派遣
平成20年(2008年)3月26日:方面情報処理隊を新編、第302保安中隊を東部方面警務隊隷下に編成替え
同12月:日米共同方面隊指揮所演習(YS-55)に参加
【参考】
帝国陸軍で関東甲信越地方の防衛警備の任に当たっていたのは東部軍(⇒第12方面軍)であった。管轄地域は東京、神奈川、千葉、埼玉、山梨、栃木、茨城、群馬、長野、新潟であった。
東部軍は、大正12年(1923年)11月に東京警備司令部令(大正12年勅令第480号)に基づき設置されていた東京警備司令部を元とする。これは首都圏(東京府東京市、荏原郡、豊多摩郡、北豊島郡、南足立郡、南葛飾郡、神奈川県横浜市及び橘樹郡)の警備を目的としたもので、それまでの関東戒厳司令部に代わるものであった。
昭和10年(1935年)8月、内地(北海道および樺太を除く)を東部(東日本)・中部(中部近畿)・西部(中国四国九州)の三つの区域に分け、防空計画官衙(*)としての防衛司令部がそれぞれの区域に新設された。
(*)官衙:国の役所・官庁のこと
東部防衛司令部は東京警備司令部が兼ねたが、昭和12年(1937年)11月30日から東京警備司令部を廃止、東部防衛司令部に一本化された。防衛司令部の編制を官衙から軍隊に改め、防衛(防空のこと)および警備に関し管区内の軍隊を指揮し官衙・学校を区処し得るものとした。
昭和15年(1940年)8月には東部・中部・西部の各防衛司令部を東部・中部・西部軍司令部に改称し、指揮のみでなく統率もするものとした。
同年12月新たに樺太・北海道・青森県・岩手県・秋田県・山形県を管轄する北部軍司令部を設けた。
昭和16年(1941年)7月、これらの軍司令部を広域防衛の見地から一元指揮する為に防衛総司令部を置き、昭和19年(1944年)に指揮のみでなく統率もするものとしたが、昭和20年(1945年)には、第1総軍・第2総軍に改編し完全な統率機関とした。(ただし、北部軍については1943年(昭和18年)北方軍に、昭和19年(1944年)第5方面軍に改編、第1総軍や第2総軍とは別の体系とした。)
本土決戦に備え、1945年(昭和20年)2月1日に、旧来の東部軍を改編した第12方面軍が設けられ、東日本の防衛任務に当る。旧来の東部軍によるものが多く、第12方面軍司令官(参謀長、参謀副長も同様)は東部軍管区司令官を兼ねた。
発足当初は防衛総司令部隷下であったが、その後すぐに防衛総司令部も第1総軍・第2総軍に改編され、第1総軍隷下となった。
編制当初は防衛総司令部管下の防衛軍戦闘序列に組み込まれていたが、1945年4月に本土決戦に備えた第1総軍設置に伴い第1総軍隷下へ移った。