自衛隊は国軍に ~憲法改正についての私見~ – 日本列島波高し(6)

2019年2月6日

 前原氏の民主党党首への就任を受けて、憲法改正が現実味を帯びた話題に上りはじめました。今まで日本に健全野党の育たなかった大きな理由の一つは憲法問題にあったでしょう。その主張はイデオロギー的空想に囚われたもので現実の政策としては全く無力でしたね。
力無き正義は空虚であり、正義無き力は暴力である
 国際紛争は一度こじれると傷が深くなります。どちらも国民世論を背負っていて後に引けなくなるので、外交による初期消火が大切です。
でも、およそ外交交渉においては迫力を伴う真剣さが相手に明白に伝わらなければなりません。「力無き正義は空虚であり、正義無き力は暴力である」と言う先人の言葉のとおり、相手が軍事力を笠に着て「押せ、押せ」でことに当たろうとしているとき、単に徒手空拳で話し合いを申し入れても、相手国側には妥協のメリットが全く見えないので初期消火になりません。
時間稼ぎをされ、既成事実を作られたうえ、こちらが譲って引き下がるのが関の山です。過去の拉致事件や今回のガス田などはその典型ですね。
ヤクザの世界と同じ
 国際社会は西部劇やヤクザの世界と同じです。口では美辞麗句で建て前を言っていても、実際の行為は「拳骨をポケットに忍ばせた国益エゴのぶつかり合い」です。警察や裁判所は無いに等しく、法律(国際法や国際慣例)は弱者を救うように出来ていないうえ、不備だらけ、抜け穴だらけ。いくらでも強者の横車が通用する世界です。
沖ノ鳥島を岩と言うなどその典型例ですね。暴力には腕力を以て対抗する気概があるとき、そのときだけ、お互いに納得のいく話し合いも成り立つのですね。我が国でも自衛隊や海上保安庁のように「法的に半端なもの」ではない正規の軍備を整え、常に「警戒、監視」を怠らず、TPOを勘案して効果的、効率的に運用したいものです。
憲法改正への議論
 さて、11月には自民党の憲法改正案が出され、政界でも憲法改正がやっとまともに議論できる?環境になりそうですが、今までの論議が大きく歪んでいたのでその後遺症が心配です。例えば、半年ほど前に自民党の舛添要一参院議員などが主になって新憲法案の「たたき台」なるものを作り上げましたが、それには「“自衛軍”を保有する」と書いてありましたね。正直、あの案にはガッカリしました。
英語では「軍」も「隊」も同じForceです。これまで”Self Defense Force”と言う弁解じみた名称でどれだけ惨めな思いをしてきたことか・・。例え憲法改正なって海軍が復活しても“Self Defense Navy”では「うれしさも中くらいなり自衛軍」ですね。
将士の士気の上がらないような名称をわざわざ用いるなど愚策です。やはり小泉首相のコメントのとおりに、無用な形容詞などの付いていない「国軍」でなくては、と強く感じています。
軍の前に形容詞がつくのは共産国だけ
 憲法の中で「軍隊の名前」に形容詞がわざとらしく付いているのは共産国だけではないでしょうか。人民軍、解放軍、赤軍、革命軍、等々ロクでもない名前ばかりで、みんな国家より党が優先し、その党を守る“ヤクザの用心棒”軍ですよね。
 詳しく調べたわけではありませんが、普通の国の憲法には「軍隊を保有する」なんてわざわざ書かれていないように感じます。警察と消防を持つ、とは書かないのと同じことで、大抵の国の軍隊は憲法などが生まれるより遙か昔からその国にあったからです。
特殊な「わけあり」のドイツやスイスの憲法には軍備保有が明示的に書かれていますが、これは新規に兵役の義務を定めたため、及び永年の伝統を曲げて常備軍を保有するためで、やむを得ぬ例外です。
9条2項の削除
民主党の前原氏が主張するように、9条2項を削除さえすれば、あとは軍関係法令の整備で済むことで、わざわざ憲法に記す必要はありませんね。同様に集団的自衛権も国連憲章に記されている世界の常識であり、わざわざ憲法に明示する必要はないと思われます。
 そればかりか、法律のレベルでも現在の自衛隊法や防衛庁設置法のように「やること」「出来ること」を法律として泥縄的に書き加えるのでなく、臨機
応変に国難事態に対処できるよう、最高指揮官からの命令の形にすべきです。
軍隊の本質
軍隊の本質は「国内法の機能し得ない場面で活動できる」ことにあります。「軍隊の行動を規定するものは最高指揮官の意志と確立された国際法のみ」で
す。
法律でがんじがらめにしたのでは単に「看板を変えただけの自衛隊」ではないでしょうか。
以上、ヨーソロの管見でした。