「狙撃」 フランス外人部隊・日本人衛生兵のアフガニスタン戦争 Vol.28

2019年2月6日

【写真】Liberation, Le Monde, Le Point, Nouvel obs., France 2, La Croix. com, The Daily Mail 掲載はじめに
先日、心肺停止に陥っている男性のいる場に偶然居合わせ、応急処置を施す機会がありました。
やがて到着した救急隊に処置を引き継ぎ、救急隊の仕事を見学したのですが、「この仕事、やりたいなあ」と思いました。
やはり、“現場”“最前線”が私にとっては一番やりがいを感じられるところだと再認識しました。私は救急隊の属する消防に応募できる年齢ではないので、諦めざるを得ませんが、これからも事故現場に居合わせたら行動を起こしたいと思います。
狙撃
アフガン兵が手首に被弾し、米陸軍のブラックホークに搬出された
翌日、我々の車列はCOP46を出た。第1小隊4台、第4小隊4台、指揮小隊5台だ。
第1、第4小隊は戦闘班で構成されているが、指揮小隊は中隊長班、
副中隊長班、ADU(中隊の最先任下士官)班、車両整備班、そして私の
所属する医療班で構成されている。
第1、第4小隊のVABが列を成してCOP46を後にした。中隊長班や
副中隊長班のVABはその列のどこかに混ざる。最後にADU班、医療班、
車両整備班のVABがつづく。これら3つの班はいつも一組となって動く。
タガブ谷東側にひろがる荒野に、第3中隊の車両群が散らばった。
しかし、どんな配置になっているのかは私にはわからない。我々の
位置は谷の西側にある村の端から1kmくらい離れている。一番接近して
いるVABでも500~600mくらいではないかと思う。
第1小隊所属の狙撃班やミラン(対戦車ミサイル)班は小高くなった
地形のところに陣取っているだろう。我々の荒野への展開に対する
敵の反応を観測するのだ。
エンジンを切り、ヘルメットをハンドルの上に置いた。退屈な時間
が始まった。何時間たっても、敵の反応はない。戦場の時間の多く
はこのように暇だ。日光の暑さがVABの車体を通して体に伝わる。
脱水症状にならないように、運転席のわきから500mlのペットボトル
に入ったミネラルウォーターを小まめに飲んだ。そして再び、遠く
に見える村に目をやる。
目では村を見ているが、心はもの思いにふけっていた。「1年後
除隊したら何をしよう」とか、「日本の親友たちは今どうしている
のだろう」とか、「アフガン派遣後の長期休暇はどこに行くか」
など考えていた。
すると、中隊長から無線が入った。
「全コールサイン、レッドのほうで1人、ヘルメットを撃たれた。
緊急搬送の必要はない。」
「レッド」とは第2中隊のコールサインだ。つまり、第2中隊の誰か
がヘルメットに被弾したのだ。被弾すること自体は不運だが、
ヘルメットに救われるのは好運と言えるだろう。
しかし、7.62mm弾をヘルメットに被弾すると、衝撃で首の骨を
折ってしまうと聞いたことがある。無線で「搬出の必要はない」と
言っていたので、折れてはいないのだろう。
ヘルメットに撃ち込まれた弾丸は遠距離から放たれたものだった
かもしれないし、アゴひもを外していたから、ヘルメットだけが
飛んでいき助かったのかもしれない。さまざまな条件で負傷の
程度も変わる。
第2中隊がどこで何をしているのかについては、私は全然知る由も
なかった。ヘルメットに被弾したのは、激しい戦闘のときなのか、
狙撃を受けたからなのか、それすらわからない。まあ、私の立場では、
知る必要性がないから情報が届かないのだ。どのみち後で、現場に
いた奴らから聞く。
我々第3中隊のほうでは何もなかった。朝から夕方まで荒野に
停まったVABのなかで、まる一日太陽に蒸されたあと、暗くなると、
車列を成してCOP46に戻った。
COP46に常駐している衛生兵が我々のVABのところにやってきた。
外人部隊ではないフランス正規軍の、第1機甲パラシュート連隊に
所属するフォエという名の黒人兵だ。40歳過ぎで中年太りをしている。
フォエは1990年に陸軍に入隊した古参兵で、初陣はなんと湾岸戦争
だった。その後、アフリカ諸国や旧ユーゴスラビアの紛争など、
いろいろな地域へ派遣され、アフガニスタンは2回目の派遣だという。
フォエとは、アフガニスタンに派遣される4ヶ月前の演習で一緒に
行動し、知り合った。私より10歳以上年上だが、階級は私と同じ
上級伍長なので仲良く話すことができた。
そんなフォエが、VABの後ろにいる我々のもとへやってきて、
「村から敵がロケットを撃ってくるとしたら18時から22時のあいだだ」
と言った。毎晩ではないが、毎週1回は必ず飛んでくるという。
しかし、1発もCOP敷地内に落ちたことはない。
フォエは我々とともに缶ジュースを飲み、少し雑談をした後、
自分の寝泊りする天幕へ戻って行った。天幕の半分が診療所で、
残り半分が生活スペースとなっている。折り畳みベッドに寝る生活だ。
翌日もCOPから出ていったが、まる一日何も起きなかった。
夕方前、まだ明るいうちに帰投を始めたのだが、COP46には戻ら
なかった。土埃を立てながら荒野を走行し、COP46よりも5kmほど
北に建設されたCOP51に向かった。
COP51は、村の端から数百メートル離れたところに孤立した、
100m弱の丘の麓にあった。COP46よりも村に近いが、村とは逆の側
の麓にあるので、丘が頼もしい遮蔽物となっているうえ、見通しの
よい見張り台の役目を果たしている。
COP51もバスチョン・ウォールに囲まれており、中にはテントや
コンテナが並び、アフガン国軍が駐屯している。丘の上までT55戦車
が登っており、村の方向を向いている。
我々の車列はCOP51に入らず、COP横に駐車したものの、しばらく
すると、COP51から村の方向とは逆の山地の方向へと進み、荒野から
山地に入った。大きなタガブ谷から山地のほうに細く短く伸びる
小さな谷を進むと、山地の中に盆地のような地形が広がった。
我々はVABを盆地に駐車した。盆地にはすでに第2中隊のVABが何台か
いた。その中に、第2中隊医療班のVABもあった。我々がVABを駐車
した位置から近い。ヘルメットを撃たれた兵士について聞くことが
できるだろう。
我々医療班4人は第2中隊の医療班のもとへ、あいさつに行った。
彼らから10mくらい離れた地面にはTシャツ姿のリトアニア人一等兵
が座っていて、ぼんやり遠くを眺めている。額の右上部分に大きな
絆創膏を貼っているので、ヘルメットを撃たれたのはこいつだと
確信した。
第2中隊の看護官がそのヘルメットを見せてくれた。前面のやや
右下寄りにポツンと弾痕があった。弾痕や弾痕の周りは緑の塗装が
はがれ、白くなっている。あと数センチ下に着弾していたら死んで
いただろう。
ヘルメットの被弾した部分の内壁は少し隆起し、破れた表面から
スペクトラ素材の白色が見える。その周りに少し血がついていた。
3針縫う傷を負ったという。その程度で済んで良かったと言うべき
だろうか。
第2中隊の医療班へのあいさつが済むと、私はミッサニ伍長と
その一等兵のもとへ歩み寄った。プルキエ少佐やオアロ上級軍曹は、
第2中隊の軍医や看護官と話し続けている。
私とミッサニは一等兵のそばにしゃがみ、あいさつした。
「どんな具合だ?」
私が尋ねると彼は答えた。
「まだ痛いです。吐き気はないですが、めまいがします。」
「撃たれたときの状況を話してくれないか?もし嫌だったら
別にいいんだけど・・・。」
撃たれた体験を話すのは本人にとって苦しいことかもしれないと
思ったが、私は尋ねた。
彼が言うには、荒野の小高くなった場所から周辺を見張っていた
ところ、下のほうに多くのヤギとヤギ使いの男性が現れた。
その男性を見張っていると、突然男性は踵を返し、もと来た方向へ
走り出した。
「どうしたんだ?」と彼は思ったが、再び視線を前方に戻した。
そのとき、ガツンと頭に強い衝撃を感じ、地面に倒れこみ、周りの
同僚たちが「大丈夫か ?!大丈夫か?!」と駆け寄ってきたという。
ヘルメットのアゴひもは締めていたが、アゴひもを固定するマジック
テープが一瞬ではがれ、ヘルメットは飛んでいった。アゴひもの固定
がバックル式だったら首を痛めていたかもしれない。
発砲は1発だけだったというので、狙撃らしかった。この一等兵から
話を聞いたときは、どこから撃たれたのかわからなかったが、後で
「600m離れた場所から」だと聞いた。結局敵は見つけられなかった。
興味深いのはヤギ使いの行動だ。狙撃直前に踵を返し、走り去って
いる。この男性が狙撃したのではないだろうが、走り去るタイミング
からして、彼には敵の狙撃手の存在がわかったのだろう。目が
よかったのか、我々にはわからない合図があったのか?
とにかく、幸いなことに一等兵は、内側に割れ込んだヘルメット
内壁で額を少し切っただけで済んだ。ヘルメット着用の大切さを
痛感した私とミッサニは話してくれたことに感謝し、VABに戻った。
2時間ほどその盆地に留まったあと、我々第3中隊は車列を成して、
COP46へと帰った。そして、夜の医療班のブリーフィングで、
「明日、徒歩で村のなかへ入ることが決まった」とプルキエ少佐が
言った。
(つづく)
(野田 力)