「アフガンの春」 フランス外人部隊・日本人衛生兵のアフガニスタン戦争 Vol.27 (野田力)

2019年2月6日

フランス特殊部隊GIGN ~エールフランス8969便ハイジャック事件~
はじめに
 先日、テレビをつけたら、「奇跡体験アンビリーバボー」で、1994年末におきたエールフランス機ハイジャック事件を紹介していました。
 フランス国家憲兵隊の特殊部隊「GIGN」が突入し解決を迎えた事件なのですが、昨年フランスで映画化され、日本でも渋谷の劇場で2週間だけ上映されました。
 タイトルが「フランス特殊部隊GIGN ~エールフランス8969便ハイジャック事件~」といい、DVD化されていると思いますので、興味のあるかたは是非ご覧になってください。

 私もパリの映画館で2回、渋谷で1回見ました。GIGN隊員の“決意”に何度も心を打たれました。とても尊敬し、憧れています。
アフガンの春
 タガブ谷の東に前哨砦「COP46」の原型ができたのが2010年3月初めだった。それから一か月が経ち、COP46は拡張工事で広くなり、FOBトラから一部の部隊が派遣され、100人を超えるフランス兵が駐屯するようになった。
 COP46に駐屯する部隊のメインは第1機甲パラシュート連隊の部隊で、AMX10RCという装輪戦車も配備された。他にも、第35砲兵パラシュート連隊の迫撃砲も配備され、我々第2外人パラシュート連隊からもいくつかの分隊が派遣された。
 私はFOBトラに駐屯したままだ。COPの食事は美味しくないので、それでよかった。それにFOBトラにいれば、米軍特殊部隊に会える。
 私が非常に驚いたのは、COP46が建設されて1ヶ月しか経っていないのに、私の知らないうちに、COP46よりも何キロか北にCOP51が建設されていたことだ。ここはアフガン国軍の駐屯地だった。仏軍の部隊は常駐していないと思う。
 この1ヶ月のあいだに、我々はいくつかの任務に出たが、あまり大きな出来事はなかった。あるとき、夜中に山を登り、朝、敵の訓練キャンプではないかという疑惑のある村を監視したが、怪しい動きはなかった。
 車両でタガブ谷の村に再度近づいたりもした。敵の大きな抵抗はなく、中隊長の班と第3小隊が徒歩で村に入っていった。軍医プルキエ少佐と衛生兵ミッサニ伍長も同行したが、私と看護官オアロ上級軍曹は装甲車VABで留守番だった。
 私も村のなかが見たかったが、VABの出動が必要になったとき、運転手がいなければ本末転倒なので、我慢するしかなかった。そもそも命令なのだから、どうしようもない。私がここにいる理由は観光ではなく仕事なのだ。
 村のなかを徒歩で行けば、敵が攻撃してくる可能性は高いのではないかと思ったが、なんの動きもなく、全員無事にVABへ帰ってきた。1ヶ月前までは、侵入すると必ず銃撃を受ける地域だったが・・・。
 ミッサニが言うには、「村のなかは緑が豊かで美しかった。住民もたくさんいて、我々を見てくるが、笑顔は見せなかった。我々はきっと敵視されている」という。
 4月に入り、荒野のそこらじゅうで雑草が芽を出し、茶色と砂色に支配されていた荒野に緑色が加わった。全体として乾燥した大地には変わりなく、雑草が茂っているのは一部で、砂色や茶色の部分のほうが多い。
 しかしタガブ谷の川沿い一帯は草木が生い茂り、畑一面が緑色になっている。アフガニスタンに派遣されている軍隊の多くが砂漠迷彩を着用しているが、ここでは森林迷彩のほうが効果的だ。フランス軍がアフガニスタンで森林迷彩を採用しているわけが理解できた。
 フランス軍は迷彩パターンの更新を計画していたが、アフガニスタンで現用迷彩パターンが意外と効果的だったので、更新しないことにしたという噂を聞いたことがある。その噂に納得がいくくらい、現用迷彩はいい色合いだった。
 春の到来は兵士の健康面にも変化をもたらした。暖かくなり、下痢の症状を訴える兵士が激増した。気温の上昇で細菌が活発になったのだろう。私は手洗いに注意していたおかげか、下痢にならなかった。
 さらに暖かくなれば、マラリア対策の錠剤を毎日一回飲むことが義務付けられる。ほんとうに意外なのだが、暑い夏が来ればアフガニスタンにもマラリアが発生するのだ。ただし、それは一部の地域であり、我々のいる地域もその可能性があるだけで、必ずしもマラリア原虫を運ぶ蚊が発生するとは限らない。ただ念のために錠剤を飲む。
 再び、タガブ谷へと新たな任務に出た。我々第3中隊の指揮小隊、第1小隊、第3小隊が参加する。他にも第2中隊やアフガン国軍も参加する大掛かりな任務だ。
 夕方、VABでCOP46に行った。バスチョンウォールに囲まれた敷地内には天幕が立ち並び、多くの兵士が駐屯していることを実感させる。我々はVABを駐車し、そこで一夜を明かした。基地は駐屯部隊により警備されているので、我々が歩哨に立つ必要はなく、途中で起きなくていい。
 春が来たとはいえ、夜は冷える。真昼は灼熱なのに、夜はダウンジャケットを着て眠る。私はVABの屋根の上で眠るのが好きだった。スリーピングマットを敷いて、アーマーを枕にし、ポンチョライナー(化学繊維の毛布のようなもの)にくるまって眠る。
 プルキエ少佐とミッサニ伍長はVABの真横に担架を置いて、それをベッドのようにして寝る。少佐がVABの右側、ミッサニが左側に寝る。オアロ上級軍曹はVAB後部内に設置された担架に寝る。医療用VABなので担架がいくつもあり、ほんの少し、他の班より快眠できたかもしれない。
 翌日は出動せず、COP46にずっといた。第2中隊やアフガン国軍、第1機甲パラシュート連隊の1個小隊が何らかの任務を遂行しているようだった。昼ごろには遠くから銃撃音や爆発音が聞こえたりした。
ブラックホーク (隼速報さんより)どこで、どの部隊が、どんな状況になっているのか、よくわからなかったが、しばらくするとCOP46上空にアメリカ陸軍のブラックホークヘリが2機現れた。そのうち1機のサイドドアには赤十字マークがペイントされている。
 どうやら負傷者が出たらしい。ケガしたのは知り合いか?
 いつのまにか負傷者は車両でCOP46 に搬入され、米軍ブラックホークが病院へ搬送するために飛んできたのだ。赤十字のついたブラックホークだけが、COP46のすぐ外にある広場に着陸し、もう1機は上空を旋回し、周囲を警戒した。
 私はVABの屋根に立ち、様子をうかがった。ここからなら広場が見える。キャノンのデジカメのスイッチも入れた。周りを見渡すと、ほんの5、6名しか見物していない。100人近くいるのに、それだけだ。将校や下士官は作戦会議などで忙しく、下っ端の多くは昼寝で忙しい。
 屋根に立つことで気づいたのだが、広場の隅に、担架に乗せられた負傷者と搬送するフランス兵4名が見えた。他にも3名のフランス兵が見える。赤十字付きのブラックホークから1人の米軍クルーが降りてきて、フランス兵たちのもとへ歩いて行った。
 少し話をするとすぐに、米兵が仏兵たちを先導する形で、全員ブラックホークに向け歩きだした。私はデジカメのシャッターを切った。戦場救護装備の企業が宣伝写真に使いそうな光景だった。
 担架を運ぶ4名のフランス兵の周りを3名のフランス兵がうろちょろしながら写真を撮ったり、映像を撮ったりしている。写真映像の部隊から派遣されている要員だ。戦闘職ではないが、彼らも最前線まで行くことがある。いわば軍所属の戦場カメラマンだ。
 やがて負傷者はブラックホークに載せられ、治療は米陸軍にゆだねられた。フランス兵たちが広場の隅へ小走りしていくと、ブラックホークは離陸し、2機そろって飛んでいった。
 後で、負傷者の治療に携わった衛生兵に聞いたところ、負傷したのはアフガン兵だった。銃撃戦で手首を撃たれたが、弾丸は骨も動脈も損傷しておらず、AK47の7.62mm弾が貫通したらしいが、射入口も射出口も小さかった。
 以前、書籍で「7.62mm弾が当たると肉が大きく吹き飛ぶ」というようなことを読んだことがあるが、そのアフガン兵の銃創は小さな穴が開いただけで、原型をしっかりと留めていた。本に書いてあることがいつも正しいとは限らないと実感した。
 ただし、内部はどうなっていたのかわからない。神経が損傷されていたかもしれない。しかし、少なくともそのアフガン兵は生き残った。「メダルをもらうには最適な負傷の仕方だ」と同僚の衛生兵が言った。私はメダルは一切いらないので、軽傷すらなく無事に生き残りたいと思う。
 ブラックホークが去ると、再び暇になった。ちょうど、アフガン国軍の車両(ハンヴィーやM113)がCOPにやってきて、我々のVABの近くに駐車したので、私は携帯糧食のビスケットやキャンディなどをかき集めて、ミッサニとともにアフガン兵たちのもとへと遊びに行った。
 以前、一緒に食事をしたアフガン兵ラゼックはおらず、英語を話す者が1人もいなかった。しかも、ミッサニの母国語であるアラビア語も通じなかった。そのため、あまり話ができなかったが、身振り手振りで交流した結果、ビスケットなどは受け入れてもらうことができ、そのお礼にビニール袋に入ったナン(平たいパン)をもらった。
 彼らはカッコをつけるのが好きで、ロケットが先端に装着されたRPG-7ロケットランチャーや、ベルト式弾薬の垂れ下がったPKM機関銃をどんどん見せてきた。私がデジカメをジャケットの胸ポケットから取り出すと、RPGやPKMをかまえてポーズをとった。撮影してやった。
 彼らはとても友好的で、言葉も通じないながらも異文化交流が成立していることが私は嬉しかった。一緒に戦う同盟軍どうしなんだから、仲良くしたほうが得だ。こちらが敬意を持てば、向こうも敬意を持って接してくれた。
 それに、私が日本人だということは理解してくれた。それもそのはずで、英語で自分のことを「ジャパニーズ」と伝えたのだが、彼らの言語で「日本人」は「ジャパニー」という。以降、私は彼らから「ジャパニー」と呼ばれるようになった。
 この日、COP46でアフガン兵と和気あいあいと過ごしていたが、やがて我々の中隊に試練が訪れ、戦場というものを痛感することになる。
(つづく)
(野田 力)