「エリートだった輜重兵―兵站の仕組みという難問(2)」(荒木肇)

2019年3月8日

今回の兵站に関する話は、私自身の研究メモでしかありません。勝手ながら、編年的にしていくつもりもありませんので、そのあたりもご容赦ください。制度的な話は、読者の中にも退屈で、面倒くさいと思われる方もおられるでしょうが、それもまたご勘弁を。
私は手元に、破れ目だらけの『兵站綱要(昭和5年刊行)』、『陣中要務令(昭和2年刊行)』があります。どちらも、ずいぶん昔に神田の古本屋で見つけました。たしか、200円ほどでしたが、重宝しています。今回、特に出所は書きませんが、大方はそこから得た知識です。

兵站の定義を厳密に見よう

戦時においての野戦軍への糧秣の追送は「陸軍糧秣本廠」が行った。セクションとしては、兵站基地、集積基地、集積主地、兵站主地、兵站地、海運地があった。
兵站は『作戦軍と本国の策源地を連絡し、その連絡線に所要の設備を施し、必要の機関を使用し、これに依りて軍需を充し繋累(けいるい)を去り、もって作戦軍をしてその目的を遂行せしむべき諸般の施設及びこれが運用をいう』と定義されている。
また、陣中要務令には、兵站勤務の実務について、次のようにまとめられていた。
1)馬匹や軍需品の前送
2)補給作戦に関係しない人馬物件の収容、後送
3)交通人馬の宿泊、給養、及び診療その他
4)野戦軍の後方連絡線の確保
5)遺棄された軍需品の蒐集と利用
6)戦地における諸資材の調査利用
7)戦地における民生
これらのうち、戦場での糧食の給与を「作戦給与」といった。より具体的な供給システムを「戦時給与勤務」とも定義していた。
順に解説する。1)馬の前送は兵站の仕事の一部であり、重要な仕事だった。とにかく、馬の損耗はたいへんな数に及んだ。また、2)補給作戦に関係しない人馬物件とは、より分かりやすくいえば、部隊組織から離れてしまった人馬である。本人たちの意思に関係なく、転属や部隊の移動、入院、病気やけがの馬なら馬廠に入るなどにしたがって、必然的に起こる事態だった。3)はよく戦記などに出てくる転属者や出張などの公務者、兵站病院への通院者
も含んでいる。4)はともかく、5)は「戦場掃除」などで集められる兵器・物資などの遺棄された物件をいう。戦地での缶詰の空き缶などもリユース対象品である。6)もまた、兵站の重要な仕事だった。7)は言うまでもなく、戦闘と無関係な一般住民への「宣撫工作」であろう。

兵站の各セクション

「兵站基地」
出征している師団の内地の師団管轄区ごとに編成される。出征部隊に必要な物資を組織的に収集し、管理し、野戦から帰ってくる人馬・物品を管理する。次に述べる「集積基地」を統括している。じっさい、大東亜戦争までは召集解除、転属、人の入れ替えはけっこう行われており、帰還する人や馬もめずらしくはなかった。
「集積基地」
戦地に輸送すべき軍需品を集積し、前送する。また、前線から還送された人員物件を後送する機関。兵站基地と戦地の集積主地の間にあって、宅配便にたとえれば配送センターといえる。
「集積主地」
戦地に置かれて、人員の輸送・物件の集積、輸送を行う機関である。内地から送られてきた物資を、作戦軍が行動する地域に置かれる兵站主地へ送る。
「兵站主地」
作戦地域内にある。兵站地区司令部、補給廠、衛生機関(兵站病院、病馬廠など)が置かれ、人馬・物件の前送、還送などを「掌(つかさど)る」と書かれている。集積主地から送られてきた物資を、戦闘部隊に配送する役目をもつ。
「兵站地」
兵站地区司令部支部や、出張所が置かれ、人馬の宿泊や休養・診療、警備、交通通信の保護を行う場所である。戦闘部隊が補給を受けるとともに、要らなくなった物品を返納するところでもあった。これが野戦師団の「師団集積所」になり、隷下の輜重兵聯隊が各戦闘部隊、同支援部隊の行李に物品を輸送し、交付することになる。つまり、兵站地までは、「兵站輸送部隊」といわれる部隊が物資を輸送するので、輜重兵部隊は関係しない。
「海運地」
戦時には輸送船などで海外に軍隊を派遣する陸軍には必要な機関である。「海運基地」とは「集積基地」の海上版といえる。多くの場合、指揮系統は大本営の直轄となり、「陸軍運輸部」の隷下になることとなる。ここから物資が送られる「海運基地」は「集積基地」の海上版。「海運主地」とは陸上の
「集積主地」である。戦地の主要港湾に設けられ、内地の「海運基地」から海路運ばれた物資の受け入れ機関だった。

輜重兵の仕事

「輜重輸卒が兵隊ならば、電信柱に花が咲く」ともいわれた輜重輸卒。その実態は前にも述べた通り、ろくに戦闘訓練も受けず、馬をひき、輜重車を引っぱるといったものだった。武装といっても、身を守るのは銃剣のみ。体格も決して良いような人たちでもなく、かなり悲惨な境遇だったことは、脚気の罹患率の高さでも分かる。
これに対して輜重兵とはエリートだった。明治45(1912)年度の数字があるが、この年の『現役兵補充兵配賦員数表』を見てみよう。現役兵は10万3784名で、補充兵は15万3080名にのぼる。現役兵の中で占める割合は、歩兵約66.6%、騎兵と工兵はほぼ同数、いずれも約4000名強で、それぞれ約4.3%、同4%である。輜重兵たるや、実数はわずかに1836名、全体の中では同1.8%。これに対して、現役輜重輸卒は1万5492名、現役兵の中では約15%を占めている。補充兵ともなると、全員は15万3080名のうち輜重輸卒は6万3012名ともなり、約41%である。
つまり、同じ「藍色」の兵科色を襟には付けていたものの、かたや1800名あまりの「帯刀・乗馬本分」の輜重兵、もう一方は銃剣(帯剣本分という)のみの1万5000名の輜重輸卒。現役兵での比率でいえば、およそ1:8というのが実態だった。
2等卒として入営直後からサーベルをさげ、乗馬長靴に拍車をつけ、騎兵銃を負い、粋なマントをひるがえす輜重兵と、ゲートルに銃剣のみという姿の差でもあった。「輜重輸卒」はバカにされても、「輜重兵」を揶揄する言葉はあまり残っていない。せいぜい、士官学校では歩兵をバタ(歩く音からきたらしい)といい、砲兵をガラ(砲車が走る車輪の音)、輜重兵をミソ(食糧運搬のことだろう)といったらしいが、それも親しい仲間内でのこと。騎兵のバキ(馬狂いといった意味らしい)も現代からすれば、ひどい差別用語だが、同じ兵科兵としての誇りは共有していたにちがいない。
当時の各兵聯隊、大隊付きの将校の定員をみると、歩兵聯隊の中隊には2.2人の士官候補生出身将校(中尉・少尉)と1.8人の准士官(特務曹長)がいて合計4人である。これに対して、輜重兵大隊には4.2人の前者と、2.8人の特務曹長がいる。合計7人だった。
つまり、それだけ、教育訓練の対象者が多かったことが分かる。約2000名の現役輜重兵の教育をしながら、同時に1万5000人強の現役輜重輸卒も年4回に分けて入営してくる。今の自衛隊に例えれば、自衛官候補生(前期教育・約3カ月)を年間通じて行い、同時に2年間の現役兵教育もしなくてはならなかったという状態になる。
歩兵聯隊の中隊では、おもに少尉が初年兵教官を務め、2年次兵の教官は中尉もしくは特務曹長が務めればすんだ。これに対して、輜重兵大隊では、さらに教育召集された補充兵役輜重輸卒の教育も行わなければならなかった。だから、輜重兵将校たちは年がら年中、教育に明け暮れていたのである。
余談だが、昨今流行の「若者の徴兵制」採用意見だが、その意気やよし、とは思われるものの、実施に当たってはかなりの体制変革(自衛隊を筆頭に)を覚悟しなければならない。ただでさえ、少ない幹部(しかも、防大・一般大卒が少ない)を現場から離して若者教育にあてることになる。今後、准尉が廃止される陸上自衛隊にあって、その負担に耐えられるのか。
ある論者はいう。3カ月でも半年でもいい、自衛隊に、消防に、警察にという。しかし、そこでの教育内容はいずれも、わが国の公共安全に関わることを含んでいる。昔の陸軍はたとえ短期の輸卒教育でも現役兵であり、予備、後備といった身分を付与していた。現役を離れても、在郷軍人として軍事警察の対象者でもあった。秘密保持の問題、不適格者の処分問題、規律の維持などに自衛隊の警務官は振りまわされるだろう。

ほとんどの徴兵制実施論者は、徴兵システムを支えるさまざまな環境、制度的なもの、経済効率などを無視しているとしか思えない。明治45年といえば、すでに歩兵現役2年制をとっていた時代である。社会の要請、すなわち若年労働力を確保するといった主張に陸軍が譲歩していたことを表している。その代わりといっては語弊があるが、陸軍は文部省と手をつないでさまざまな「入営前予備教育」を工夫していたところだった。

戦後、文部省の役人たちはすかさず「平和不戦教育」を立ち上げ、あたかも戦前の諸施策についてはすべて陸軍を「悪玉」にした。詳しい話は別にするが、「現役将校学校配属制度」も文部省が陸軍省に働きかけたというのが定説になりつつある。

輜重兵の活躍

『輜重は師団内に於ける行李用品を補充し、且つ戦場に必要なる軍需品ヲ携行し、又負傷者を収容治療する設備を運用する等、戦闘・給養・衛生に緊要なる軍需品を運搬する機関を言ふ』(兵語解説)
輜重兵大隊は大隊本部と隷下に4個から6個の縦列(じゅうれつ・中隊のこと)をもっていた。「師団集積所」に兵站部隊によって運ばれた物資を、戦闘部隊の行李に運びこむのが仕事である。これが日露戦争の時には、弾薬大隊が戦闘部隊すべての弾薬を配布する任務があったため、砲兵輸卒がいたこと(弾薬縦列の存在)は前回も書いた。
大正期以降の輜重兵大隊の戦時編制には「糧食縦列」と「弾薬縦列」ができた。伝統があった砲兵輸卒と同助卒も廃止された。戦闘部隊には行李(こうり)があった。歩兵大隊を例にすれば、「大(だい)と小」がそれぞれ1個隊ずつ編成された。戦時の動員で歩兵大隊本部は人員が増える。これを基幹にして、輜重兵大隊から配属された輜重兵と輸卒が合わさって行李はつくられた。
大正時代の輜重兵大隊の編制表をみよう。大正13(1924)年の例である。
○大隊本部
大隊長 副官 付将校 主計 がそれぞれ1名 火工長 鞍工長 木工長 鍛工長 計手(経理部准士官、下士) 書記(准士官各1名) 輸卒8(うち4名は馬卒) 自動車運転手3 乗馬7 挽馬3 車輛3
○ナンバー中隊、1~5はみな同じ
●中隊本部
中隊長 付将校3(特務曹長を含む) 曹長1 材料掛下士1 給与掛下士官1 喇叭手1 火工長1 軍医1 獣医1 計手1 看護長1(衛生部) 看護卒3 馬卒6 蹄鉄工長1 徒歩蹄鉄工卒3
●各中隊
3個小隊で各小隊は2個分隊に分かれる。分隊は4個班に分かれた。
○馬廠
廠長(騎兵中尉) 獣医2 給与掛下士1 喇叭手1 徒歩騎兵5 計手1 看護卒1 蹄鉄工長1 馬卒3
馬廠については説明がいる。徒歩騎兵とは何か、また中隊本部の徒歩蹄鉄工卒とは何かである。本来、輜重兵大隊は「乗馬部隊」に指定されていた。輸卒、馬卒以外は、誰もが原則として乗馬するのが本来であり、騎兵はもちろん存在そのものが乗馬本分者であった。
わざわざ「徒歩」と冠するのは、乗馬の配当などの問題があるからである。
中隊は原則として輜重車の輓曳(ばんえい)だった。荷車を1頭ないしは4頭、あるいは6頭でひいた。戦時編制になると、中隊は総兵力下士以下442名にふくれあがり、282台の輜重車を運用した。

ある年の陸軍大学校の口頭試問だったそうだが、『輜重兵輓曳中隊の行軍長径、また、物資の運搬量はいくらか?』と聞かれた。受験生は歩兵少尉、思わず目を白黒させたという。
正解は「1660メートル、運搬量は約53トン」だったそうだ。

(以下次号)

(荒木肇)