戦争の全体像をつかまえるには何を知るべきか?(荒木肇)

2019年2月6日

 さて、わたしたちが過去の歴史を学ぶ時、とりわけ戦争のことを
知ろうとするときに簡単に落とし穴にはまることがあります。
 まず、軍隊とは戦う組織だから軍、師団や旅団、聯隊などという
言葉に惑わされてしまうことです。○○方面軍は第○軍を隷下にし、
第○軍は第○師団や、独立混成○旅団・・・。そして聞かされるのは
ほとんど○○を占領、○○から撤退などという、あたかもコマを盤上に
進める兵棋演習を眺めるようなものになります。こうした知識をふ
んだんに持つと軍事に明るくなるという気分もあるようですが、
これがまず最初の落とし穴。
 あるいは全く逆に、巨大な組織ピラミッドの最下部の中隊や小隊
といった細かい体験談にだけ引きずられてしまうことです。ちょっと
叱られるかもしれませんが、民衆による戦場体験記や一兵卒や
下士官、下級将校の手記などばかり集める人がいます。これまた
戦争の全体の様子は想像できないのです。つけ加えれば、民間人
の「空襲体験記」なども戦争は悲劇だとか、絶対に繰りかえしては
いけないなどという情緒的な結論にはまる落とし穴でもあります。
 どちらの論者も、たぶん「人間とは何か」ということに関心が少ないか、
理解が足りないかではないかと思うのです。戦争とは生身の人間が
起こし、活動し、戦場とは不条理で、無茶で、無道な事態が次々と
生まれる場所でもあります。
 そういう中で、人は食べ、眠り、喉をうるおし、傷を手当てし、病気
を治し、装備品をつくろい、命のやりとりをする。そうであるなら、戦争
の全体像をつかまえるには、何を知ったらよいかが分かってくると
思います。
 モノや人や馬がどう運ばれ、どのように消費され、何が回収されたか。
そういった細かい知識を積み上げていけば、近代史のなかの「わたし
たちの軍隊」は、無個性な部隊名や兵員数、火器の数の集合体など
ではなくなることでしょう。当時の歩兵の戦闘の様子、砲兵の実際の
活動、工兵隊の技術などに想像ができるようになります。さらには、
父祖たちが何に悩み、その解決にどんな努力をしたのかに考えがお
よぶようになるでしょう。
 ひいては、次の戦争をいかにうまくやるかについて思考することが
できるのです。国民国家の軍隊というものは、その国民のレベルを
超えるものではありません。
 レイテ戦でアメリカ兵に捕獲された陸軍一等兵(中隊暗号手)が
大作『レイテ戦記』で書いたように、わが兵の敵はアメリカ兵ではなく、
まさに明治維新以来のわが国そのものでした。
 自動(装填式)小銃がなかったのは、その細かい部品がまともな
品質管理のもとに造れなかったからです。また、ぼう大な消費が
見込まれる小銃弾を前線に運ぶ手段がなかったからでしょう。わが
戦車が敵弾に撃ちぬかれ、こちらの砲弾がはじき返されたのもエン
ジンが非力で、装甲鈑が重くなっては機動力が発揮されなかった
からです。故司馬遼太郎が書いたように、わが戦車は欧米のそれ
に比べれば、ある時期から戦車もどきでしかありませんでした。高初
速の戦車砲の開発にも遅れをとりました。鋼材の素材の質が悪く、
加工技術も貧しかったからです。
 
 それらはすべて維新以来のわが国の実態を映したものでした。
戦後になって、「ゼロ戦」や「戦艦大和」の優秀性をいい、「物量に
負けたのだ」と言い訳にした人が多かったのですが、実態はそれだ
けの理由ではなかったのです。
(荒木肇)