トーチ作戦とインテリジェンス(26)

【前回までのあらすじ】
本連載は、1940年から1942年11月8日に実施されたトーチ作戦(連合国軍によるモロッコおよびアルジェリアへの上陸作戦のコードネーム。トーチとは「たいまつ」の意味)までのフランス領北アフリカにおける、米国務省と共同実施された連合国の戦略作戦情報の役割についての考察である。
前回は、アフリカ機関の終焉について述べた。
1941年7月、英国は、アルジェリアを拠点とする、フランス領北アフリカにおける秘密インテリジェンス・ネットーク確立のためにM・Z・“リガー”・スロヴィコフスキー(M・Z・“Rygor” Slowikowski)を派遣した。この時、彼につけられたコードネームが厳格なを意味する「リガー」(Rygor)であり、彼の機関につけられたコードネームが「アフリカ」であった。
トーチ作戦が開始してから間もなく、アフリカ機関のエージェント(協力者)たちは、本業の市民生活へと戻り、再びリガーおよびアフリカ機関の機関員とは接触を取ることはなかった。トーチ作戦における彼らの役割は終わったのである。
1942年11月下旬、フランス領北アフリカでの情勢が
落ち着きを見せ始め、ロンドンへの移動準備が完了するや、
リガーはロンドンから英国本土へ戻るようにとの指示を受けた。
そして、12月下旬に、リガーは英国本土へ帰還を果たした。
英国はヴィシー・フランス内での一切の活動を禁止されていた。
トーチ作戦開始までの北アフリカにおける英国のインテリジェ
ンス活動は、ポーランド陸軍の情報中央局を使用して、
ポーランドが実施する活動であるとの外観を維持しながら
実施したという点できわめて巧妙であった。
したがって、ロンメル率いるアフリカ軍団が連合軍により
撃破され、南欧州に対する侵攻作戦の準備が整った1943年
春にリガーのアフリカ機関は正式に閉鎖された時、リガーの
活躍に対し酬いたのは英国と米国であった。
その後、リガーは、ポーランド軍陸軍少将の地位まで出世した
が、1947年に退役している。退役後は、70歳までイン
グランドの金属研磨工場で勤務した後、92歳の時に本連載
でも使用した回想録を執筆し、1989年、ロンドンにて
93歳で逝去した。
今回から数回にわたり、フランス領北アフリカでインテリ
ジェンス活動を展開していた三つの機関が、どのようにして
インテリジェンス・ネットワークを確立したかについて考察
してみたいと思う。
【北アフリカで諜報活動に従事した三つの組織とインテリジェンス・ネットワークの確立】
これまでの連載の流れをまとめてみよう。フランス領北アフリカ
でインテリジェンス活動を行っていた機関は三つあった。すなわち、
1、駐ヴィシー米国代理大使ロバート・マーフィーの指揮下
で動く十二人の副領事(十二使徒)・・・国務省系のインテリ
ジェンス・ネットワーク
2、M・Z・“リガー”・スロヴィコフスキーが指揮するアフリカ
機関・・・ポーランド軍&英国系のインテリジェンス・ネットワーク
3、ウィリアム・ジョセフ・ドノヴァン&ウィリアム・A・エディー
のインテリジェンス・ネットワーク・・・情報調整局(OCI:後の
戦略情報局(OSS))系のインテリジェンス・ネットワーク
以上三つの機関である。
そして、これまで考察してきたように、フランス領北アフリカで
インテリジェンス活動を実施していた3つの機関は、それぞれ独自
にインテリジェンス・ネットワークを構築していた。
【マーフィーと十二使徒の場合】
十二人の副領事(十二使徒)はフランス領北アフリカに着任後、
少なくとも初期のインテリジェンス活動は自分自身で、ないしは
地元エージェントを通じて実施した。十二使徒はロバート・マーフィー
の指揮下で、地図を収集し、地誌情報を集め、海岸線を測量し、フラ
ンス住民やアラブ住民の感情を探り、船舶の移動を監視したりした。
さらに、十二使徒は、副領事に偽装してインテリジェンス活動を
行っていたため頻繁に領事館から抜け出す必要があり、そのたびに
上司である領事たちに対してもっともらしい話をでっちあげて、
自分たちがインテリジェンス活動に従事していることを察知され
ないようにしなければならなかった。
十二使徒の初期のインテリジェンス活動は、彼ら自身が主体となって
実施していたため、その活動を支援する地元エージェントの数も比較
的少数であり、インテリジェンス・ネットワークも小さく、その範囲
も限定されていた。
【オートミール粥を製造・販売するビジネスマンに化けたリガー】
リガーは、ソヴィエト・ウクライナの首都キエフのポーランド領事館
に勤務する書記官の仮面をかぶりポーランド軍参謀本部第二局のため
に南部ロシア地域の情報を収集した経験や、フランス領内からポーラ
ンド軍将兵を英国に脱出させる活動をした際に学んだ経験を活用して
アフリカ機関を創設した。
リガーは、ほぼ完全に秘密が保持されたインテリジェンス・ネット
ワークを確立した。彼の秘密保持は徹底していて、米国のカウンター・
パートとは異なり、エージェントですらリガーの正体は不明であった。
リガーは、オートミール粥の製造・販売を行うビジネスマンだと周囲
を思わせることに成功していたのである。
ビジネスにも巧みであったリガーは、インテリジェンス・ネットワーク
を運営するコストを補填するためにオートミール粥ビジネスで得た
収益を投下した。連合国の北アフリカ侵攻作戦が開始された後に、
リガーはエージェントの何人かを感動させた。というのも、上陸作戦
が始まるや否や、エージェントの身に危険が及ばないように、彼ら
との接触を一切絶ったからである。エージェントはその時になって
ようやく、リガーが自分の収集した情報を送付していた機関のトップ
であることに気づいたのである。
【リガーに雇われたエージェントは、なぜ情報を提供したのか?】
インテリジェンス研究では、エージェントが情報を提供する理由と
なることを示す言葉にMICEなる語がある。すなわち、
金銭(money)・イデオロギー(ideology)・妥協と脅迫(compromise&
compulsion)・エゴ(ego)
それぞれの頭文字を取って並べた造語だ。では、リガーに雇われたエー
ジェントの場合は、どういう動機で情報を提供していたのだろうか?
アフリカ機関が雇っていたエージェントの多くは、ドゴール率いる自由
フランス支持者であったために情報を提供した。もしくは、自由フランス
支持までいかなくても、自身が情報を提供する行為が枢軸にとって不利に
なることであり、したがって、自分の行動がフランスをドイツ軍の占領
から解放する一助となることを理解して情報を提供していた。
リガーのエージェントたちの多くは、彼らが提供した情報の量および質
と比較すると極めて些細な額の対価しか受け取っていない。エージェント
の多くは、ただ単に、自身のやっていることが祖国からドイツを追い出す
ことに寄与する正しい行為だと思い、リガーに情報を提供し続けたのである。
リガーのエージェントたちの多くは、MICEではなく、愛国心や枢軸
憎しという感情から情報を提供したといえるであろう。
収集した情報はロンドンにきちんと届かなければ意味がない。その点でも
アフリカ機関はぬかりがなかった。アフリカ機関が存続し続けた間、
リガーは、彼のチームにより組み立てられた二機の無線機を使用して、
ロンドンに向けて1244件もの詳細な情報・分析報告を送信したのである。
そして、リガーが北アフリカの地で活動を開始してから約6ヶ月後に、
彼は米国の支援を受けて、非常にデリケートな内容が満載の報告書類を
ロンドンへ送るための安全かつ信頼できるシステム(外交郵袋)を確保
したのである。
次回は、ウィリアム・A・エディーがどのようにしてインテリジェンス・
ネットワークを形成したのかを述べたいと思う。

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