トーチ作戦とインテリジェンス(24) 長南政義

前回までのあらすじ
本連載は、1940年から1942年11月8日に実施されたトーチ作戦(連合国軍によるモロッコおよびアルジェリアへの上陸作戦のコードネーム。トーチとは「たいまつ」の意味)までのフランス領北アフリカにおける、米国務省と共同実施された連合国の戦略作戦情報の役割についての考察である。
前回は、アフリカ機関を中心とする英国のインテリジェンス活動について、特に、リガーがインテリジェンス・ネットワークを形成した方法と、彼がどのような情報をロンドンへ送信したかを中心に述べた。
1941年7月、英国は、アルジェリアを拠点とする、フランス領北アフリカにおける秘密インテリジェンス・ネットワーク確立のためにM・Z・“リガー”・スロヴィコフスキー(M・Z・“Rygor” Slowikowski)を派遣した。この時、彼につけられたコードネームが厳格なを意味する「リガー」(Rygor)であり、彼の機関につけられたコードネームが「アフリカ」であった。
リガーは、一握りのポーランド人により指導されるインテリジェンス・ネットワークを、フランス領北アフリカ中に注意深く確立していった。インテリジェンス・ネットワークには、価値のある情報を収集するために、フランス領北アフリカの住民たちが多数、協力者として雇われていた。
この協力者は、男女を問わず、またその職種も警官や役人といった公職に従事するものに限らず、鉱山労働者、港湾労働者、医師、商店主、アラブ人まで多岐に及んだ。これによりリガーは、アフリカ機関が活動している間、詳細かつかなり確度の高い情報をロンドンに送り続けることができた。
1941年7月にアルジェリアに到着して間もない時期から、リガーは、フランス領北アフリカで活動する十二使徒たち(米国がスパイとして派遣した副領事)の存在に気づいていた。リガーは、「インテリジェンスの観点からすると、彼ら[ 十二使徒たち ]がまるで外交官のように振る舞っているので、時間を浪費している」ことを素早く理解した。
リガーは同一地域において連合国のインテリジェンス活動が重複している無駄に気づき、これを解消しようとして十二使徒と接触しようと試みた。
今回はリガーが米国の十二使徒と接触し、どのような協力関係を構築したのかについて述べる。
リガー、十二使徒とコンタクトを取る
本連載で指摘したように、戦間期にインテリジェンス活動が低調であったことが原因で、第二次世界大戦初期の頃の米国のインテリジェンス活動は、さまざまな問題を抱えていた。インテリジェンスのプロであるリガーからすると、十二使徒たちのインテリジェンス活動には不備な点が多く感じられたであろう。
リガーは、アドルフ・ヒトラーが米国に宣戦布告した1941年12月11日の直後に、米国の十二使徒の一人であるジョン・ノックス(フランスのサンシール陸軍士官学校卒業者)と初めて接触した。最初の接触は、慎重を期して第三者を通じてなされ、ノックスもリガーと会うことに同意した。
その後、リガーは、十二使徒たちの情報組織とその情報収集のやり方を評価するために、アルジェの米国大使館に赴いた。米国大使館に到着するや否や、リガーは、米国人は非常に礼儀正しく行儀が良いものの、彼らがフランス領北アフリカ地域の重要事項に関する知識や情報に欠けているということに気付いた。リガーにとってこのことは、十二使徒たちが外交官のように行動しているという評価を裏付けたにすぎなかった。
リガーと十二使徒、インテリジェンス活動で協力をする
「米国はどのような形であればリガーを手助けできるのか?」がさっそく問題となった。リガー、ジョン・ノックスおよびジョン・ボイド(十二使徒の一人で、元コカコーラ社マルセーユ支店長)は、リガーのインテリジェンス関係文書を米国の外交郵袋を使ってロンドンへ発送することに合意するに至った。この合意により、1941年2月に米仏間で締結されたマーフィー・ウェイガン協定の規定を利用する形で、アフリカ機関は、ドイツおよびフランスの妨害・干渉をうけることなく、大量のインテリジェンス文書をフランス領からロンドンへ合法的に送り出すことができるようになった。
従来、アフリカ機関は、収集した情報を無線でロンドンに発信していたため情報量がどうしても限られており、傍受される危険もあった。しかし、情報を文書の形で合法的にロンドンへ発送するルートができたことにより、このような問題点を解消することができたのである。
裏切られた合意とリガーの諦念 ~横取りされた情報~
リガーは、十二使徒たちの合意に基づき、1942年1月2日から、外交郵袋を使ったインテリジェンス文書の発送を開始した。しかし、ここで問題が発生した。リガーが二回目に出した外交郵袋が一時的に行方不明になったのである。
実は、この外交郵袋は、OSSのトップとしてタンジールでその地位を確立していたウィリアム・A・エディー予備役海兵隊中佐(1941年9月14日にタンジールに着任した、米国の北アフリカにおける情報収集の責任者)の要求に基づき、副領事たちによって検閲のためにその封印が破られていたのであった。
米国で公開された機密文書を収録した、米陸軍省戦時諜報隊歴史プロジェクト編『OSSの戦時報告書』(原題: War Report of the OSS、著者:United States. War Dept. Strategic Services Unit. History Project 、1976年刊)によれば、この事態の背景は以下のようなものであった。すなわち、
「エディーの到着後、北アフリカに所在する諜報員によって獲得されたあらゆる情報は、外交郵袋および無線を通じてエディーに送付された」
のである。すなわち、エディーは、フランス領北アフリカにおいて、連合国側のインテリジェンス機関によって収集された情報を一元的に統括することを望んでいたのだ。この事態に対するリガーの反応は次のようなものであった。
「選択肢はなかった。私は合意せざるを得なかった。私は、副領事たちに封印されない外交郵袋を預けることにより、副領事たちが我々が得た情報を複製して、それをワシントンへ直接送ることによって、我々の労働の成果を不当に使用することができることを十分に理解していた。
私は、米国人が我々のために十二分にやってくれていることに対する米国人への報酬であると、仕方なく考えることにした。
情報収集こそが我々の第一の任務である。したがって、現実的には、集めた情報を最初に入手するのが、ロンドンであろうとワシントンであろうと、そんなことは重要ではないのだ」(『OSSの戦時報告書』)。
リガーが十二使徒と結んだ合意の意義は次のようなものになるであろう。すなわち、この合意は、明らかに、エディーとOSSが自身の情報分析と情報利用のためにアフリカ機関の獲得した情報を利用することを可能にしたのである。米国側が悪人みたいな感じがするが、北アフリカ地域における連合国側のすべての情報を統合し分析するという観点から評価すると、エディーがやったことは正しいともいえるであろう。
【マーフィーとリガーの会談】
1942年2月6日、米国の北アフリカでのインテリジェンス活動を統括するロバート・ダニエル・マーフィーは、リガーと会談する目的で彼を招待した。この会談で、マーフィーは、リガー率いるアフリカ機関によって提供された情報の価値の高さを素直に認めた。これは、情報を横取りされたことで感情を害していたリガーに好印象を与えた。リガーは次のように述べている。
「彼ら(筆者註:ワシントン)が、自身の情報源が北アフリカにいるポーランド陸軍のアフリカ機関であることを告げられているならば、私には不服はない」。
マーフィーは自身の回想録『軍人のなかの外交官』においてリガーとの接触について言及していないが、彼はこのリガーの言葉に対して、
「当然、これは紳士協定の一部であると理解している」(以上の引用は、『OSSの戦時報告書』)
と答えたという。
これ以後の5ヶ月にわたり、リガーは、インテリジェンス文書を外交郵袋に入れて米国大使館に定期的に届け、ワシントン及びロンドンがアフリカ機関の収集した情報を使用することを承認していた。同一国家内のインテリジェンス機関同士が縄張り争いを演じて、情報の失敗を起すケースが数多いことを考えると、他国人による情報の横取りを認めたリガーの度量の広さには驚かされる。

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