武士道精神の実践:吉田松陰の家族と松下村塾  武士道精神入門(24)

吉田松陰先生▽ ごあいさつ
 こんにちは。日本兵法研究会会長の家村です。
今回は「武士道精神の実践」の第十話(最終回)といたしまして、忠君愛国の士・吉田松陰の人物像について、その家族や師、弟子たちとの人間的なふれあいの観点から紹介いたします。
 吉田松陰こそは、短い生涯ながらも、まさに「武士道精神の実践」そのものの生き方をした人物と言えるでしょう。
 それでは、本題に入ります
【第24回】武士道精神の実践:吉田松陰の家族と松下村塾
▽ 慈愛に満ちた吉田松陰の父母
 吉田松陰は、妹に与えた手紙で次のように教え諭(さと)している。
 ・・・自分たちの家には、りっぱな家風がある。神様を敬うこと、祖先を尊ぶこと、親類とむつまじくすること、学問を好むこと、また、田畑を自分で作ることなどである。これらのことは、父母の常になされるところであって、自分たちはそれにならわなければならぬ。これが孝行と申すものである。・・・
 吉田松陰は文政13(1830)年8月4日、長門の国(現在の山口県)萩城下の松本村で、長州藩士の次男として生まれた。幼名を大次郎(だいじろう)といった。松陰には、一人の兄と四人の妹と一人の弟とがいたが、皆、仲よくして助け合っていた。
 松陰の父は、杉百合之助(すぎゆりのすけ)といった。松陰が少年の頃までは、家禄ばかりでは、くらしを立てることが出来ないので、農業につとめていた。しかし、読書が好きで、米をつくときにも書物を読み、又、畑に出ても、あぜの草の上に書物を置いて、仕事の休みの折に読んでいた。松陰らが大きくなってからは、このような時にも兄弟に書物を読んできかせた。米つき場のあたりや田畑のあぜで、親子の読書の声が聞えると、松陰の叔父は、「やあ、また兄さんのが始った。」と言った。
 百合之助は、常々松陰たちに、「むだ話をするひまがあるなら、書物を読め。」と言って誡(いまし)めた。
 松陰の母は、瀧子(たきこ)といった。二十歳のとき百合之助に嫁し、よく夫を助けて野に出て田畑を耕したり、山へ行って薪をとったりして、仕事に骨折った。また、我が子の養育につとめ、裁縫・洗濯のことから家事一切をひとりで引受けて、かいがいしく立働き、馬を飼う世話まで自分でした。
 瀧子は、姑(しゅうとめ)にもよく事えた。三度の食事には温い物をすすめ、衣服は柔かい物を着せていたわり、裁縫する時などは、姑の側(そば)で、喜ばれるような話をしてきかせてなぐさめた。また、姑の妹がこの家に世話になっていたが、ある時、重い病気にかかった。瀧子は久しい間、夜もろくろく寝ずに介抱したので、姑は、「忙しくてひまがないのに、親類の世話まで親切にしてくれて、まことにありがたい。」と言って、涙を流して喜んだ。
 後に百合之助は、藩の役人に取立てられて、官舎に移ったが、瀧子はとどまって、よく家をととのえ、松陰たちの養育につとめた。
 松陰の父母は、このように心をあわせて、父は業務にはげみ、母は夫を助けて家をととのえ、また、ともに我が子の教育に力を用いたので、家も栄えるようになり、子供たちは皆、心掛けのよい人になった。
▽ 父と叔父から受けた薫陶(くんとう)
 百合之助は、神を敬い、祖先を尊んだ。毎朝誰よりも早く起きて井戸から新しい水をくみ、祖先の霊前に供えて拝んだ。そして、西の方角に藩公のおられる萩城を拝し、東に向かってうやうやしく皇室のみさかえを祈った。
 祖先の祭日には、殊につつしんでお祭をした。毎月一日には、必ず、身体を清め、衣服をあらためて、氏神に参内した。また、春と秋の二回、日をきめて、藩公・毛利氏の先祖を祀(まつ)ってあるやしろにお参りすることを習わしとしていた。
 ある年のその日の朝、あたりはまだ暗く静まりかえっていた。百合之助は、梅太郎(松陰の兄)と大次郎を起こして庭に連れ出した。春まだ浅く、肌にせまる暁(あかつき)の闇(やみ)の冷たさ。足もとにくずれる霜柱の色は見えないが、地面は堅く凍っている。百合之助は、二人の男子をつれて井戸ばたへ出た。
 三人はいつものように、着物を脱ぐとつるべを取り、水を汲みあげて冷たさをもいとわずに頭から浴びて、心を清めた。まだ明けやらぬ薄明かりの中に、汲みあげられる水は、氷のように白く光る。しかし、梅太郎も元気よく水をかぶった。満々と水を汲み入れたつるべは、幼い大次郎の腕には、かなり重かったが、それでも大次郎は、ゆっくりとあわてずに、ざぶりざぶりと上手に浴びた。
 家の中では、あかのつかない、さっぱりした着物を取りそろえて、母が静かに待っていた。
 「では、出かけるぞ。途中で人に会っても、言葉をかわしてはならない。」
 百合之助の声は、いつもとは違って、厳しさを含んでいた。この宮参りの朝だけは、心を汚すことのないよう、家の外へ足をふみ出したら、決して人と口をきかぬと父と子は、かねてかたく約束してあったのである。
 この日、無事におまいりをすまして、家に帰ってからのことてあった。
 「梅太郎は、何を祈った。」と、父がたずねた。
 「はい。皇室のみさかえを祈り、殿様の御無事を願いました。」
 「うむ。なるほど。では、大次郎は。」
 「私も、第一に皇室のみさかえを祈りました。それから、自分がほんとうの日本国民になることをお誓いいたしました。」
 「ほんとうの日本国民とは、どういうことか。」
 「臣民としての道を守り、命をささげて陛下の御ためにつくすのが、ほんとうの日本国民だと、玉木の叔父様(玉木文之進)が教えてくださいました。」
 百合之助は、わが子ながら大次郎は、あっぱれな魂の持主だと心ひそかに感じいった。
▽ 吉田松陰の兄弟姉妹
 天保5年(1834年)、五歳になった松陰は、幼名を大次郎から寅次郎へと改め、叔父で山鹿流兵学師範である吉田大助の養子となった。しかし、翌年に大助が死亡したため、再び百合之助の下で養育されながら、叔父の玉木文之進から兵学の指導を受けることになった。
 松陰のすぐの妹を千代といった。兄・梅太郎と松陰、そして千代の三人は、兄弟中でも年の差も少なく、家がまだ貧しい時に一緒に育ったので、助け合うことも多かった。松陰は、兄とともに父や叔父の教えを受け、二人で互いに励まし合いながらよく勉強した。
 松陰は、大きくなって、国のために尽くす大志を抱き、全国を旅行したり、江戸にとどまっていたりして、家に帰ることは少かったが、兄の梅太郎は、よく父母につかえて、故郷のたよりを、常に弟の松陰に知らせてやった。また、松陰のために書物をととのえて送り、松陰の苦労をなぐさめて、その志を励ました。松陰は、外に出ていても常に我が家のことを忘れず、父母の側(そば)にいてつかえることが出来ないのを残念に思い、兄や妹に、自分に代って父母につかえてくれるように頼んだ。ある年の正月、松陰は兄に手紙を送って、
   朝日さす軒端(のきば)の雪も消えにけり
           わが故郷の梅やさくらん
という歌をよみ、新年のお喜びを述べ、今朝はお雑煮をたくさんいただいて、少年の頃、一緒に楽しいお正月を迎えたことを思い出したと言って喜んだ。
 松陰は妹たちをかわいがった。妹の小さい頃には、書物を教えたり、字を習わせたりした。大きくなって他家へ嫁入してからも、手紙をやって、家をととのえ子供を教える道をこまごまと書いて与えた。その中に、
 「およそ人の子の、かしこきもおろかなるも、よきもあしきも、大てい父母のおしえによる事なり。」
 と記して、殊に子供の幼い間は、母の教えが大切であると誡めた。又、
 「神明をあがめ尊ぶべし。大日本と申す国は、神国と申し奉りて、神々様の開きたまえる御国なり。」
 と記して、神を敬うべきことを教えた。妹はこれらの教えを長く忘れず、松陰が亡くなった後も、その手紙を出して見ては、兄の親切を思い出して泣いたという。
▽ 学問に励み、自分を磨く
 松陰は小さい時から、父母や叔父の教えをよく守って学問に励んだので、学業が進んだ。
 十一歳の時に、藩主・毛利敬親(たかちか)の前に呼出されて、兵書『武教全書』の講釈を命ぜられるや、大勢の家来が並んでいるところで、見事に講釈をしたので、藩主を始めとして皆が大そう感心した。その後も、十三歳と十五歳の時に藩主の前で兵学の講義をしている。なかでも十五歳のおりには、ほうびとして『七書直解(しちしょちょっかい)』という書物をいただいた。
 それでもなお、兵学を深くきわめるため、十七歳の頃には、林真人(まひと)という先生の家に住みこんで、その教えを受けていた。
 弘化3(1846)年のある晩のこと、この師・林真人の家が火事に見舞われた。二階に寝ていた松陰は、「火事だ~」というけたたましい叫び声で目がさめた。部屋中にもうもうたる煙が、うずを巻いている。松陰は、とっさに身支度をすまして階段をかけおりた。まだやまない強い風にあおられて、火のまわりは早かった。炎の勢はものすごく、もう手のつけようもない。
 「さわぐな。」
 松陰はみんなを大声でしかりつけた。家の人々は、ただうろうろと逃げまどうぼかりであった。
 「女と子どもは、そのまま外へ行け。男はだいじなものだけ、運び出せ。」
 煙は真黒になって、もくもくと吹き出し始めた。女、子どもは戸外へとび出して行く。その後を追いかけるようにして、本箱や、たんすを引っかついだ男たちが続いた。松陰は一生懸命になって、本という本を手あたりしだいにつかみ出し、家の外へほうり出した。めらめらと、赤い炎が身近にせまって来る。松陰がとび出すと、まもなく、ばりばり、めりめりと、はりや柱が響きをあげて、くずれ落ちた。炎の色は夜空をこがし、恐れおののく人々の顔を照らし出した。
 やがて、松陰の大奮闘によって、書物の大部分と、家財道具のいくらかを取り出しただけで、林真人の家は後かたもなくなって、一山の灰になってしまった。焼け跡の後かたづけをしながら、松陰は先生に云った。
 「死人もなく、けが人もなかったのは、何よりでした。」
 先生は応えた。
 「いや、まことに申し訳ないのは、君が殿様からいただいたあの『七書直解』を灰にしてしまったことだ。まことに取りかえしのつかないことをしたな。」
 「あ、『七書直解』ですか。惜しいことは惜しかったのですが、もうあれは十分“はら”に入れたつもりですし、また殿様には、私から重々おわびいたしますから、どうぞ御心配なく。」
 松陰はかえって師と仰ぐ林先生を慰めた。ほんとうに松陰は自分のものを、何も惜しいとは思っていなかった。むしろ、力が足りないため、もっとたくさん、いろいろなお手伝いができなかったことを恥ずかしいとさえ感じていた。
 師につかえるのに、私心があってはならない。しかもどんな場合にも、自分を磨くのが、学問する者の態度である。松陰の行いは、常に自分の学ぶところと一つになっていたのである。
▽ 黒船来航と尊皇愛国の精神
 松陰は、少年の頃、父から我が国がりっぱな国であることを教えられ、又先輩に外国の事情を聞いて、国のために尽くそうと志を立てていた。それから、各地を旅行して、優れた人に会って教えをこい、また、内外の事情を知ることに努めた。
 二十一歳のとき兵学研究のため江戸に出て、佐久間象山(さくましょうざん)らを師として学び、二十二歳のときには東北へ視察に出発した。しかし、この東北旅行は藩府の許可を得ない無届出奔であったことから、翌年に帰藩すると亡命の罪を問われて士籍と禄高を没収された。その後、藩主・敬親による特別の計らいで、十年間の諸国遊学が許されることになる。こうして、松陰は二十四歳の時、萩を出発して江戸へと向かう。また、その途中にも京都で諸国の志士との交遊を深めた。
 嘉永6(1853)年、アメリカ合衆国の軍艦が我が国に来て、幕府に交際を求め、通商を迫った。しかし、日本では久しい間、外国と交際をしていなかったので、どうしたらよいかと国中大さわぎをした。二十四歳の松陰は、この国難を救って国のために尽くそうと苦心したが、自分一人の力では出来ないことを知り、藩主にいろいろと意見書を出した。その一つを時の天皇が御覧になったと聞いて、松陰は感泣(かんきゅう)した。
 この頃の松陰は、次のような信念を抱いていた。
 「我が国は万世一系の天皇のお治めになる国であって、我等は祖先以来、天皇の臣民である。天皇は皇祖皇宗の大御心のままに臣民をいつくしませ給(たま)い、臣民は祖先の志をついで天皇に忠義を尽くして来た。天皇と臣民とは一体をなし、忠と孝とが一致している。これが我が国の万国に優れたところである。誰でも日本人と生まれた者は、我が国体がかように尊いことをわきまえるのが、最も大切なことである。」
 そして、この信念に基づき、先ず自分の郷里から始めて、全国の人にこれを伝えて「尊皇愛国」の精神を振るい起させようと決心した。その後、松陰は国のために尽くし、度々難儀に出あったが、その度、いつでも父・百合之助と母・瀧子は、我が子を励ましたり、いたわったりして、よく尊皇愛国の道に尽くさせた。
 安政4(1857)年11月、松陰は二十八歳の時、郷里の松本村に松下村塾を開いたが、この時も父は公務のかたわら何かと松陰の相談相手となって助け、母は、弟子たちを我が子のようにいつくしみ、また、松陰をたずねて来る人々を親切にもてなした。
▽ 松下村塾における教育
 冬ながら、もう十日余りも風のないおだやかな天気がつづく。ここ松本村新道の杉家の屋敷うちでは、のみやつちの音が、いそがしそうに響いている。宅地の中にあった小屋を手入れして、それを八畳敷きの小さな家に建て直そうというのである。
 松陰は集って来る村の子弟たちを教えみちびくため、おじの久保五郎左衛門の力ぞえで、その学舎(まなびや)を作ろうと思いたったのである。これから伸びようとする青少年たちに、何かしら、手伝ってやりたかったのだ。これが松下村塾である。
 おだやかな冬の日ぎしを背に浴びながら、松陰はできあがって行く家の前庭に、梅の木を植えていた。ふと足もとにさす影法師に気がついて顔をあげると、高杉普作がにこにこしながら近づいて来た。高杉は今年の秋、塾にはいったばかりの青年である。
 「先生。いよいよ、できあがりますね。」
 「おかげでな。」
 「しかし戸障子がありませんね。」
 「ない。畳もないぞ。しかし、ござを敷けばよい。」
 手入れをして、やっと雨露が漏らないようにした塾を前にして、松陰と晋作とは、ほほえみながら、向かい合っていた。けれども、まもなく塾が、その八畳しかない屋根の下で開かれるようになると、誰となく少しずつ金を出し合って、障子を買って来たり、また古畳を持って来たりして、粗末ながら、塾のかたちができあがったのである。
 本をたくさん読むことが、そのままよいのではない。よい本を選んで、その一冊一冊が、自分の考え方をしっかりさせる読み方でなければならない。松陰はいつでもよい本をたくさん読んでは、全部それを自分の身につけて、心を豊かにしようとつとめた。
 門下の人々がふえて、八畳しかない塾は、だんだん狭くなって来た。安政5(185)年3月ごろ、
 「どうだ。ひとつ、ぼくらの手で建て増しをしようではないか。」
という話が、誰いうとはなしに持ちあがって、松陰先生の許しが出ると、すぐその明くる日から、塾生たちは、みんなで木を運び、板を集めたて工事が始った。血気ざかりの青少年ばかりなので、建て増し工事は、またたくうちにはかどった。先生も弟子も力を合わせ、柱を立て、壁をぬって、十畳半の一室を作り上げた。
 この松下村塾で、松陰が教えた学問はいろいろある。もっとも松陰が力を注いだのは、皇室を尊び、至誠を以って貫ぬき、実行力を持つ、という精神を養うことであった。江戸数百年の間眠っていた当時の人々を悟らせて、皇室を尊ぶようにさせなければならないというのである。そのためには、一人でも多く大義に目ざめた人物が必要である。そうして一人よりも百人、百人よりも千人、万人。日本国中の人々をゆりさまさなければならない。松陰は、ひたすらこの大道を至誠を以って実行しようとしたのである。
 ここでは、武士の子も、農家の子も、へだてはなかった、また松陰は、決して先生だという高慢な態度をとらなかった。先生と塾生の膝(ひざ)と膝とが、くっついている。礼儀は正しいが、へだてはなかった。ある時は、十歳ばかりの幼い弟子が新年の元日に学問をしに来たのを喜び、親切に教えてやって励ました。また、霜の深い夜、炉をとり囲んで、弟子たちと国事を語り明かしたこともあった。毎日昼の学問がすむと、松陰は、弟子たちと一緒に、畑を耕したり、米をついたりした。皆、松陰にみちびかれて、書物も読めば、剣道もやる。あるいは養蚕や農作業をしたりして、魂をねりあげた。そして、松陰も常々、
「松本村は、片田舎ではあるが、この塾からきっと御国の柱となるような忠義な人が出る。」
と言って弟子たちを励ました。
 このようにして松陰は、弟子たちと寝起きや食事を共にして、書物を読み、意見をたたかわせ、互いに魂のとびらを開いて交わらせながら、熱心に教え導いたのである。
▽ 親思う心にまさる親心
 松下村塾は、わずか十八畳の古い家屋であったが、ここに集った青少年の中から、久坂玄瑞(くさかげんずい)、高杉晋作を始めとして、明治維新のおり、身を以て国事に尽くし、御国の柱となった忠義の士がたくさん出た。それ以外にも、村に残って己を修め、家を守った弟子たちでも、一人として間違ったことをした者はなかった。、
 やがて松陰は、二十九歳の時、同志17名と血盟して「安政の大獄」を未然に防ぐために老中・間部詮勝(まなべあきかつ)の暗殺を計画したことから、藩府により投獄された。そして、安政6(1859)年、幕府により江戸に送致され、同年10月27日に伝馬町の獄で刑死した。
 吉田松陰は三十歳の若さで亡くなったが、国体を明らかにし、皇室を尊び、我が国を盛んにしようとしたその精神は多くの弟子たちに受け継がれた。
 獄中の松陰は、門弟たちに向けた遺書『留魂録』を書き残し、その冒頭で次の辞世を記した。
   身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも
           留め置かまし 大和魂
 そして、家族に宛てて遺した『永訣書』には、自分が亡くなった時の両親の悲しみを気遣って次のような辞世が記されていた。
   親思う心にまさる親心
        けふのおとずれ何ときくらん
(「吉田松陰の家族と松下村塾」終り)
(いえむら・かずゆき)

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