武士道精神入門(21)ーー武士道精神の実践:サムライ艦隊、地中海へーー

マルタ共和国旧英国海軍墓地 (現英連邦墓地) にある第二特務艦隊戦没者の墓▽ ごあいさつ
 こんにちは。日本兵法研究会会長の家村です。
 今月5日に発売させていただきました拙著「兵法の天才 楠木正成を読む 河陽兵庫之記・現代語訳」(*)を、私が尊敬する国会議員の西村眞悟先生に贈呈いたしましたところ、西村先生から御葉書が届き、「・・・持ち歩き拝読しております。しみじみと、日本人に生まれてよかったと思います。・・・」との大変ありがたいお言葉をいただきました。(*)http://okigunnji.com/1tan/lc/iemurananko.html
 郷里の山が金剛山であられる西村眞悟先生は、さらにご自身のメルマガでも、以下のように拙著をご紹介して下さいました。
(以下、西村眞悟先生メルマガから引用)
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◎西村真悟 日本人のほほ笑み
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 やはり、八月十五日が近づいてきたのだ、と思う。
 暑くなるとともに、英霊のことを思う日が多くなっているからだ。特に、七月一日に沖縄の茂みのなかを歩いてから、この暑い日々に茂みに潜んで戦い続けた同胞のことがしきりに思われた。
 このような折、はっと気付かされたことがある。
 それは、日本人の死生観とほほ笑みのことである。
 蒙古襲来は、我が国最大の国難であった。
 蒙古は、文永十一年(西暦一二七四年)と弘安四年(一二八一年)に襲来した。
 我が国はこの蒙古を撃退したのであるが、よく言われるように、神風によって撃退したのではなく、鎌倉武士の壮絶なる決死の戦いによって撃退したのである。
 特に、文永十一年、日本人として初めて三万の蒙古軍と相まみえた対馬の地頭、宗助国以下八十四騎の戦いは敵に強烈な印象を与えた。
 私は、対馬を訪れれば、よく蒙古がはじめに上陸してきた対馬西岸の古茂田浜に行く。そして、ここで奮戦して五体ばらばらになった宗助国の首塚と胴塚に参る。
 しかし、彼らが如何なる形相で奮戦したのか、いままで脳裏に浮かばなかった。それを数日前に頂いた本で教えられた。
 日本兵法研究会会長で元陸上自衛隊の戦術教官であった家村和幸中佐の近著である「兵法の天才 楠木正成を読む」(並木書房)は、宗助国等の奮戦の様子を次のように伝えてくれた。
「対馬で元軍を迎え撃った宗助国を頭とする八十四人の一族郎党は皆、顔に笑みを浮かべて群がり寄せる元軍の中に斬り込み、鬼神のように奮戦し、壮絶な最期を遂げた。
 このように大義に死す時、人生意気に感じた男たちは笑って死地に向かっていくものなのである。
 大軍を前に死ぬことがわかっていても、戦いを挑んでくる鎌倉武士達に元軍の大将キントも、『私はいろいろな国と戦ってきたが、こんなすごい敵と出会ったことはない』と驚き、絶賛に近い評価を下した。」
 これを読んだとき、対馬の古茂田浜の景色が瞼に浮かぶとともに、浜に群がる蒙古軍に向かって宗助国等八十四騎は、笑みを浮かべて突撃していったのかと感慨深いものがあった。
 そして、同じような笑みを浮かべている人達が昭和にもいたことを思ったのだ。それは、特攻隊員達の笑顔だった。
 多くの特攻隊の若者達は笑顔を写真に残している。
 ・・・(以下略)
(引用おわり)
『兵法の天才 楠木正成を読む (河陽兵庫之記・現代語訳) 』
⇒ http://okigunnji.com/1tan/lc/iemurananko.html
 さて、今回は「武士道精神の実践」の第七話といたしまして、第一次世界大戦における日本海軍の地中海遠征について紹介いたします。
 それでは、本題に入ります
【第21回】武士道精神の実践:サムライ艦隊、地中海へ
▽ 日英同盟と日本・イギリス両国海軍の「絆」
 1902(明治35)年1月30日、日英同盟のための協約がイギリスの首都ロンドンにおいて、林駐英公使とフィッツモーリス外相により調印された。これが第一回日英同盟協約である。この協約では、締約国が他の一国と戦争状態に入った場合、同盟国は中立を守ることで他国の参戦防止に努め、二国以上と戦争状態に入った場合、同盟国は参戦することが義務づけられた。
 第一回日英同盟協約が締結された時、両国の海軍どうしによる秘密の協議も進められた。日本は、ロシアとの戦争に単独で臨み、イギリスには軍事援助よりも財政援助を期待すると伝えると、イギリスも「好意的に」中立を守ることを約束した。こうして、日露戦争が始まってからも、イギリスは中立を装いながら、諜報活動やロシア海軍への非協力などにより日本を助けた。
 例えば、イギリスは艦砲の射撃能力を高める最新式の照準器具を日本にだけ売り、ロシアには売らなかった。また、バルチック艦隊の遠洋航海に際しても、スエズ運河の通航を許可せず、良質な石炭の売却やイギリス籍の船舶によるロシアの軍需物資の輸送を拒んだ。
 1905(明治38)年5月、日本海軍の連合艦隊は、ロシア海軍のバルチック艦隊を日本海で撃滅し、これにより日露戦争の勝利が決定的になった。
▽ 日英同盟の更新と第一次世界大戦への参戦
 ロシアを共通の敵国として締結された日英同盟であったが、その後、第二回、第三回と更新されていく中で共通の敵国がドイツへと変化していった。
 第二回日英同盟協約は、日露戦争末期の1905(明治38)年8月12日に調印された。この協約では、日英両国の特殊利益を防護する地域が清国・韓国からインドにまで拡大された。日本の朝鮮に対する支配権とイギリスのインドにおける特権を互いに認めあうことや、清国に対する両国の機会均等が定められ、さらに、締結国が他の一国以上と戦争状態に入った場合、同盟国はこれを助けて参戦することが義務づけられた。
 1907(明治40)年には、日露協約、英露協商が成立して両国の対露関係が良好になる一方で、アメリカの対日世論が悪化していった。こうしたなかで、1911(明治44)年7月13日に第三回日英同盟協約が調印された。この協約では、イギリスがアメリカと交戦する可能性をなくすため、アメリカを交戦相手国としないことが定められた。これは日本、イギリス、ロシアの三国が結束することに対するアメリカの強い警戒心によるものであった。
 1914(大正3)年に第一次世界大戦が始まると、日本はこの第三回日英同盟協約により、連合国(協商)側について同年8月23日、ドイツに宣戦布告した。
 日本は、陸軍と海軍を派遣してシナにおけるドイツの租借地であった山東半島の青島(チンタオ)や、太平洋上の赤道以北の島々を占領した。
▽ 日本海軍特務艦隊の派遣を決定
 第一次世界大戦が始まってすぐに窮地に立たされたイギリスは、同盟国の日本に陸軍のヨーロッパ派兵を求めてきた。しかし、日本には元々自国の防衛に直接関係のない地域へ軍隊を派遣する考えが無く、さらに遠く離れたヨーロッパでは補給が困難であることから、日本政府はこの陸軍の派遣を断った。
 次いで、イギリス海軍は不足する自国の艦艇を補うために、日本海軍の最新鋭艦である「金剛」型巡洋戦艦の貸与を要請してきたが、海軍軍令部(日本海軍の作戦担当機関)がこれに難色を示したことから、これも実現しなかった。
 しかし、開戦から二年半後の1917(大正6)年1月になってドイツとオーストリアが潜水艦による無制限の海上交通破壊(商船などを警告せずに攻撃すること)を開始したことから、連合国側の被害が甚大なものになった。そこで、イギリスは日本に海軍の艦隊派遣を求めてきた。
 日本政府は、地中海や喜望峰など直接的に何の利益も生まない地域への派遣を渋っていたが、イギリスとの関係を重視する海軍省(日本海軍の行政担当機関)の積極的な働きかけや、開戦当初にドイツを破って占領した膠州湾租借地や南洋諸島での利権を確保するため、やむなく艦隊の派遣を決定した。こうして、1917年2月から駆逐艦や巡洋艦からなる三つの特務艦隊をインド洋、地中海、南太平洋などに派遣した。
 地中海に派遣される第二特務艦隊は、司令官・佐藤皐藏少将の指揮下、巡洋艦「明石」と第十駆逐隊(駆逐艦「桂」「楓」「楠」「梅」4隻)、第十一駆逐隊(駆逐艦「松」「榊」「杉」「柏」4隻)で編成された。
 同年3月11日、第二特務艦隊はシンガポールを出発し、地中海へと向かった。
▽ 地中海における第二特務艦隊の活躍
 1917年4月13日、第二特務艦隊は、地中海の中央にあるイギリス領・マルタ島に到着した。じ来、同島を根拠地とし、地中海全域でイギリス海軍と協力して対潜水艦作戦び輸送船隊の護衛任務などに従事した。その結果、大戦が終結するまでに延べ788隻の船舶と70万人の兵員を護衛し、魚雷で被弾した船舶から7075人の乗組員を救助した。
 なかでも、同年5月3日、ドイツ海軍の潜水艦により被弾したイギリス輸送船トランシルヴァニア号の救助活動に当たった駆逐艦「松」と「榊」は、敵潜水艦からの魚雷を避けながら、約1800人のイギリス陸軍将兵と看護婦を救助した。日本以外の海軍では、このような危険な状況で決死の救助活動を行うことはなかった。これ以来、第二特務艦隊に護衛を依頼する国が急増し、さらに駆逐艦「松」と「榊」の士官は、イギリス国王ジョージ五世から勲章を授かった。
 こうしたことから第二特務艦隊の任務は増大し、これに対応するため、装甲巡洋艦「出雲」及び第十五駆逐隊(駆逐艦「樫」「桃」「檜」「柳」4隻)が新たに第二特務艦隊に編入され、同年6月1日に日本を出発した。これらの増援艦隊がマルタ島に到着するのは8月初旬であったが、その間も、イギリス海軍の要望により2隻のイギリスのトロール船に日本海軍の将兵を乗せ、我が軍艦旗を掲げて、それぞれ艦名を「東京」「西京」と仮称して参戦させた。
 その後、さらにイギリス海軍の駆逐艦2隻が貸与され、同様に我が軍艦旗を掲げて、それぞれ艦名を「栴檀(せんだん)」「橄欖(かんらん)」と仮称して第十一駆逐隊に編入し、所要の任務に当らせた。
▽ 名誉の戦死を遂げ、とこしえに眠る勇士たち
 しかし、こうした困難にして危険な任務には、損害も避けられなかった。
 同年6月11日、護衛任務を終了して、マルタ島へ帰航中の駆逐艦「松」と「榊」は、オーストリア海軍の潜水艦と交戦になった。「榊」は、敵潜水艦から魚雷攻撃を受け、左舷艦首下に被弾した。この被弾で火薬庫が爆発し、さらに重油タンクに引火して船体の三分の一が吹き飛んだ。そして、艦長・上原太一中佐以下59名が戦死し、庄司彌一大尉以下16名が負傷した。
 この駆逐艦「榊」の59名を含み、第二特務艦隊では、護衛作戦間に78名の兵員が戦死した。これら戦没者の遺骸は、地中海のギリシア領であるクリート島に埋葬されていたが、駆逐艦「榊」が撃沈された一年後、イギリス海軍によってマルタ島のイギリス海軍墓地に改葬された。
 イギリス海軍は、連合国海軍として多大な功績を挙げた日本海軍・第二特務艦隊の根拠地に、立派な記念碑を建立し、盛大な慰霊祭を挙行して感謝の誠を捧げたのであった。
 そして、 昭和天皇が東宮殿下の御当時、ヨーロッパ御歴遊に際し、この地中海の一島であるマルタ島に立ち寄られ給いて、畏(かしこ)くも親しく御展墓あらせられた。
 今なお、日本海軍勇士の英霊は、このマルタ島にとこしえに眠りつつある。
(「サムライ艦隊、地中海へ」終り)
(いえむら・かずゆき)

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