トーチ作戦とインテリジェンス(13)  長南政義

前回までのあらすじ
本連載は、1940年から1942年11月8日に実施されたトーチ作戦(連合国軍によるモロッコおよびアルジェリアへの上陸作戦のコードネーム。トーチとは「たいまつ」の意味)までのフランス領北アフリカにおける、米国務省と共同実施された連合国の戦略作戦情報の役割についての考察である。
前回は、食糧管理官である副領事たる十二使徒たちの活動とその意義について述べた。
副領事の最初のグループがアルジェリアに到着したのは、1941年6月10日のことであり、残りが到着したのはその年の7月になってからであった。副領事は、カサブランカ、サフィー、オラン、アルジェ、ビゼルトおよびチュニスといったフランス領北アフリカのあらゆる地域に置かれた。いずれも、表面上は各地の領事の下で活動しており、領事たちも十二使徒たちの真の活動については知らされていなかった。
十二使徒たちは、「副領事」という肩書を隠れ蓑にして、ドイツ・イタリア休戦監視委員会に関する情報を収集し、フランス艦隊の移動状況を報告し、フランス人植民地主義者および現地住民両方にいる反ヴィシー政権派と接触を試みた。
フランス領北アフリカに所在するゲシュタポやドイツ・イタリア休戦監視委員会も十二使徒たちが副領事という表の肩書の裏で展開していた諜報活動を把握することができなかった。インテリジェンスの専門用語に、「カバー」という用語がある。カバーとは、諜報員であることを隠すために諜報員に対して与えられる擬装用の肩書・経歴のことである。このケースでは、副領事というカバーが効果的であったのだ。
十二使徒たちが果たした役割は大きなものがあった。すなわち、素人諜報員である十二使徒たちは、大統領が軍事的活動に正式に承認を与えるはるか以前に、フランス領北アフリカに駐留する軍隊に関するあらゆるオペレーショナル・レヴェルの情報を収集していたのである。また、十二使徒たちの活動により、トーチ作戦で実際と戦場になった地域の住民感情や地誌などが明確になったため、米国が同地域に軍隊を送る決定をした際に米軍の活動がスムーズに展開できた。
今回から数回にわたり、OSSの創設過程について考察する。
すべてはニューヨークの弁護士とともに始まった
1974年、後にCIA長官に就任するウィリアム・ケーシーは、
「米国にいる我々にとって、すべてのことは、米国が致命的な脅威に直面していることを知り、準備も出来ていなければ何も知らされていないことを知るニューヨークの弁護士と共に始まった。ウィリアム・ドノヴァンがルーズヴェルト大統領の唯一人の中央情報局であった1940年から1941年にかけての時期が存在したことを、今日の我々が理解することは困難である」
と述べている(トーマス・F・トロイ『ワイルド・ビルとイントレピッド ~ドノヴァン、スティーヴンスンおよびCIAの起源~』原題:Wild Bill and Intrepid Donovan, Stephenson, and the Origin of CIA.)。
ケーシーによるこの発言は、第二次世界大戦に参戦する前の米国が、①インテリジェンスの面で組織面でも運用面でも全く準備ができていなかったこと、および②CIA設立に至る米国の諜報機関の創設に果たしたウィリアム・“ワイルド・ビル”・ドノヴァンの役割の大きさを示している。
では、第二次世界大戦参戦以前の米国のインテリジェンスの状態はどのようなものであり、ドノヴァンとはどのような人物であったのか?
第二次世界大戦参戦以前はお粗末だった米国のインテリジェンス
欧州で二度目の世界大戦が勃発した時、米国は、世界の主要都市の裏通りで金庫破りや窃盗を行うような好ましくない人間たちと国家レヴェルで接触し活動する能力を有していなかった。換言すると、人間を媒介とした諜報活動であるヒューミントで代表的なコバート・アクション(秘密活動)を本格的に展開する能力に欠けていたのである。
1909年に諜報機関を公的に創設した英国、1913年に創設したドイツ、1917年に創設したロシアおよび1935年に創設したフランスと異なり、米国は、1941年の夏までインテリジェンスを収集分析する中央機関を持っていなかったのだ。当時の米国が持っていたのはインテリジェンスの収集分析を行うために組織されたゆるやかな組織の集合体であって中央機関とよべるようなものではなく、しかもコバート・アクションのようなスパイ小説まがいの活動は展開せず紳士的な活動のみしか行っていなかった。
さらに、シギント(通信・信号などを媒介とした諜報活動。当時の米国は通信傍受がメイン)や暗号解読を行うために存在していた各組織は、予算も人員も不足していた。これらの組織は、予算獲得のために相互に争っていただけではなく、政府内の政治的影響力を持った有力者の支持を取り付けて他機関よりも有利な地位を得ようと争ってもいた。しかし、こういったことのすべては、わずか2年間のうちに劇的に変化する。
1941年夏までに、米国政府は、このようなダーティーで汚れた側面を有するスパイ活動をすることができる要員を雇用したのだ。そのようなダーティーなスパイ活動には、大使館から国家機密文書を盗んできたり、他国のエージェントを誘惑して二重スパイに仕立てたり、抵抗組織を確立するために敵戦線後方にパラシュートで降下したり、指揮官が作戦計画を立案・遂行するのに必要な情報を収集したりすることが含まれていた。
戦間期におけるインテリジェンスの空白期間が生み出した真珠湾奇襲
しかしながら、戦間期にインテリジェンスの空白期間が存在したことがネックであった。1941年12月7日(ハワイ時間。日本時間では8日)の真珠湾攻撃の後に米国国内で巻き起こった政府に対する非難の声は、米国政府のインテリジェンス収集分析の真実の状態を鋭く衝く形となった。
実のところ、ルーズヴェルト大統領とその側近たちは、米国のインテリジェンス機関の能力が不充分であることをずっと以前から知っていた。『ルーズヴェルトの秘密戦争』(原題:Roosevelt’s Secret War)の著者であるジョセフ・E・パーシコは、大統領に就任し、FBI、米国陸軍情報局および米国海軍情報局により提供される情報を評価したルーズヴェルトは、以下のように感じたという。
「インテリジェンスの空白が満たされなければならないことは疑う余地のないことである。戦争の以前でさえ、ルーズヴェルトは国務長官コーデル・ハルに対して自身のいら立ちを表現していた。FBI、米国陸軍情報局および米国海軍情報局は、『絶えず互いの道を交錯している』と、ルーズヴェルトはハルに不満を述べている。
このインテリジェンス活動の重複は、資源の浪費であり、予算を高騰させ、非効率であると、ルーズヴェルト大統領は非難した。彼はこれら三つの機関の活動がうまく調整されることを希望したのである」(ジョセフ・E・パーシコ『ルーズヴェルトの秘密戦争』原題:Roosevelt’s Secret War)。
インテリジェンス機関同士の活動を調整しようとしたルーズヴェルトの試み
ルーズヴェルトはインテリジェンス機関同士の活動を調整することの必要性を公然と述べると共に、活動の未調整から生じる空白部分を個人的にうめようと試みた。
すなわち、ルーズヴェルトは、ルーズヴェルトを直接補佐するために億万長者のウィリアム・ヴィンセント・アスターのような友人たちを雇ったのである。さらに、ルーズヴェルトは、インテリジェンスの穴をうめるためにFBI長官エドガー・フーヴァーや国務長官コーデル・ハルといった政府職員に対してインテリジェンス関係の指示を直接出し始めた。
フーヴァーやハルについては読者もご存知であろうから、本稿ではヴィンセント・アスターについて説明したい。ニューヨークには、アスター・パレス、高級ホテルであるウォルドルフ・アストリア、アスター・ホールといったアスターの名がつく建築物が多数現存しているが、これらはすべてアスター家にちなむものである。もともと毛皮貿易で財をなしたアスター家は不動産事業に進出し億万長者となった。ヴィンセント・アスターの父ジョン・ジェイコブ・アスター四世はタイタニック号に乗り合わせて死去し、その後を継いだのがヴィンセントであった。ヴィンセントは、不動産業のほかにも慈善事業やニューズウィーク誌の大株主を務めるなど顔が広く情報関係の任務にはうってつけの人物であった。
ルーズヴェルトは、最初、世界中で情報を収集する活動を調整する任務を国務次官補ジョージ・ストラウサー・メッサースミスに課したが、これも国務長官コーデル・ハルを通じてなされたものであった。メッサースミスの任務は、国務省、FBI、米国陸軍情報局および米国海軍情報局間の調整を行うことにあった。メッサースミスが、国務省入省前に公立学校で教鞭をとる教員であったことは本連載でも紹介したとおりだ。
この初期の準備段階では、ルーズヴェルトは、世界の各地域の問題に関する情報を収集するためにルーズヴェルト個人のために直接働くように、自身が登用した人物に対して要求していた。つまり、まだ、真の意味でのインテリジェンス機関同士の調整はなされていなかったのである。そして、ルーズヴェルトのために働く人々の一人に、ウィリアム・ジョセフ・ドノヴァン陸軍大佐がいた。
次回からは、ウィリアム・ドノヴァンの略歴とその活動について述べることとする。
(ちょうなん・まさよし)

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