トーチ作戦とインテリジェンス(10) 長南政義

【前回までのあらすじ】
本連載は、1940年から1942年11月8日に実施されたトーチ作戦(連合国軍によるモロッコおよびアルジェリアへの上陸作戦のコードネーム。トーチとは「たいまつ」の意味)までのフランス領北アフリカにおける、米国務省と共同実施された連合国の戦略作戦情報の役割についての考察である。
前回は、ルーズヴェルト大統領と駐ヴィシー米国代理大使ロバート・マーフィーとの密談と、ルーズヴェルトがマーフィーに与えた密命について述べた。
トーチ作戦をめぐる諜報活動においては、米国の国務省が実施した諜報活動が重要な役割を果たしていた。ルーズヴェルト大統領は、マーフィーの報告書を読んでマーフィーに目をつけた。ルーズヴェルト大統領は、ヴィシー・フランスにおけるマーフィーのコネクション、および彼の情報収集・分析能力を使おうと考えた。そして、ルーズヴェルトは、1940年7月3日、マーフィーを駐ヴィシーの米国大使館の総責任者に任命した。
運の悪いことにマーフィーは、仏英関係に悪影響を与えたメルセルケビール海戦のあった当日に、ヴィシー政権の複雑な内情を把握する責任を有する、ヴィシー駐在の米国外交官の責任者となり、さらには、ヴィシー政権の内情を報告するためにワシントンに召還されることとなった。
当時、ルーズヴェルト大統領は、マーフィーらから提出された報告書に基づき、フランスがナチスドイツに対する戦争を再開するために最も適した場所がフランス領北アフリカであると信じるようになった。すなわち、ルーズヴェルト大統領が、マーフィーをワシントンに召還した意図は、ナチスドイツに対する北アフリカでのフランス軍を利用した計画の実現可能性を検討することにあったのである。
ルーズヴェルトはマーフィーと会談した際に、フランス軍北アフリカ駐留軍総司令官兼アルジェリア総督を務めるマキシム・ウェイガンに接触せよとの密命を与えると共に、「ウェイガンはその地域において本当に権威を持っているのか?」という点に関し確認を求めた。そして、ルーズヴェルト大統領は、マーフィーに対して、ヴィシーに帰還してフランス領北アフリカを念入りに視察し、その結果を報告するように命じて会談を終了させた。
今回は、ヴィシーに戻ったマーフィーの活動について述べることとする。
【アフリカに無関心だった米国政府機関】
ルーズヴェルトとの会談終了後にホワイトハウスを後にしたマーフィーは、さまざまな米国政府機関が有する秘密文書を閲覧してフランス領北アフリカについての調査を開始した。政府機関の秘密文書を閲読したマーフィーは、米国政府のほとんどの省がアフリカに関心を持っておらず、陸海軍の駐在武官もアフリカに対しおざなりの注意しか払っていないということに気づいた。
そこで、マーフィーは、さらなる情報を得るために、フランス、英国、イタリアおよびドイツで収集されたアフリカに関する文書を閲覧した。しかも、それらの文書は、当然、英語に翻訳されていないものばかりであった。こうして、資料室をひっくり返して得ることができたわずかながらの情報で武装したマーフィーは、ヴィシーへ帰還するためにワシントンをあとにした。
【マーフィーのフランス領北アフリカ調査旅行】
ヴィシーに帰還したマーフィーは、複数の外交チャンネルを使った交渉により、ヴィシー政府からフランス領北アフリカに入る許可を取ることに成功した。そして、それから数週間後の1940年12月18日、マーフィーは、フランスをあとにしてアルジェリアへ向けて出発し、こうして3週間におよぶマーフィーのフランス領北アフリカにおける現地調査任務がスタートした。
マーフィーがアルジェリアに到着した時、マーフィーはウェイガン将軍がダカールに滞在しているという情報を入手した。この情報を得るやマーフィーは直ちに行動を起こし、ウェイガン将軍と会見するためにダカールに向かった。
ウェイガン将軍とその側近たちは、マーフィーに対して、具体的な事実だけではなく、彼らが抱いていた感情や意図まで打ち明けた。ウェイガン将軍らがマーフィーに対して洩らした感情や意図は、ドイツの侵攻の噂や、ドイツ侵攻がもたらす意味に関するものが大半であった。
そして、この噂が、ウェイガン将軍をして、ドイツ侵攻への対抗手段として米国からの何らかの支援を得たいと思わしめる理由の1つとなった。さらに、この噂が、米国とフランス領北アフリカとの間の経済協定締結の可能性を模索する協議の開催へとつながった。
マーフィーは、フランス領北アフリカの主要都市を視察し、大統領に提出する報告書作成に必要な情報を収集して後、この現地調査旅行を終了した。こうして、1941年1月5日、マーフィーは、ワシントンへ赴くためにポルトガルのリスボンに向けてアフリカ大陸をあとにしたのであった。
【マーフィー・ウェイガン協定に隠された真の狙い】
ワシントンへ向かう途中で、マーフィーは報告書を完成させた。この報告書はルーズヴェルト大統領により好意的な評価を得た。報告書を読んだルーズヴェルト大統領は、1941年2月、ウェイガン将軍およびヴィシー政権と経済協定締結交渉を行わせるためにマーフィーを再度、フランス領北アフリカに送り出した。
こうして1941年2月に米仏間で締結されたのが、マーフィー・ウェイガン協定である。当時、フランス領北アフリカは、英国によって、経済封鎖および貿易統制が行われていたが、本協定は、中立国であった米国によるフランス領北アフリカへの輸出を承認する内容であった。
経済協定の条件によれば、米国は、積荷を監視し、輸出品がナチスドイツにわたらないように監視するために、アルジェリア、モロッコおよびチュニジアに食糧管理官を配置することができるかぎり、フランス植民地と貿易を継続することができることになっていた。
さらに、これらの食糧管理官はマーフィーの指揮下で動く副領事を兼務するはずであり、彼らが配置された真の意図は、彼らがフランス領北アフリカおよびフランス本土に関する情報を収集する秘密諜報員として行動することにあった。
副領事の仕事が積荷を監視するという明らかに表面的な任務であったため、ヴィシー政権主席のペタン元帥もウェイガン将軍も含めマーフィー・ウェイガン協定に関わったすべての人間が、これら副領事が本当は諜報員であることを理解していた。つまり、秘密が秘密となっていなかったのである。
これら副領事に関して、マーフィーは自身の回想録『戦士の中の外交官』(原題:Diplomat Among Warriors)の中で次のように述べている。
「ワシントンにいる先見性のある少数の人間は、われわれがアフリカで進行中のことについて知っていると気づいていた。彼らは、フランスに完全に依存するのではなく、必要不可欠な米国人のオブザーバーの必要性を理解していた。
我々はフランス領北アフリカの5都市に領事館を置き、総勢12人のアメリカ人職員を配置した。しかし、これらの国務省官僚は、彼らの職務に関連する任務のための訓練しか受けていなかった。したがって、いまや我々は、我々が副領事と呼ぶ12人のオブザーバーを任命しなければならないと決断した。そして、この特別な集団は私の個人的な指示に基づいて行動したのである」。
【ウェイガン将軍による特別措置】
蛇の道は蛇という言葉の通り、ウェイガンもマーフィーの行動の真の意図を理解していた。ウェイガン将軍は、平時の外交ではないことを理解していただけではなく、機密情報の保護に関していくつかの特別措置を認めた。
たとえば、米国側は通常の外交用途であっても暗号の使用が認められたり、鍵のかかった荷物であっても査察を受けずに本国へ輸送することができたのである。このような特別措置は、12人の副領事を含む領事館の全職員にまで拡大された。
ウェイガン将軍による特別措置により米国が得た情報収集のチャンスは前例のないものであった。
というのも、米国は、フランス人のみならず、フランス領北アフリカにおいて活動するドイツ人やイタリア人に関しても諜報活動を行い、入手した情報をフランス政府機関のみならず独伊停戦監視委員会による査察・妨害・傍受を受けることなくワシントンに安全に伝達する白紙委任状を与えられたといっても過言ではない状態にあったからだ。
【マーフィー・ウェイガン協定の意義】
マーフィーもマーフィー・ウェイガン協定に基づきヴィシー政権による支援と理解を得ることができた。またこの活動を通じて、米国はフランスを見捨てないというシグナルを暗黙裡に示すことができたのである。
つまり、マーフィー・ウェイガン協定に基づいて米国が輸出する物資やサービスが枢軸国側の手にわたらない限り、米国はフランスと協働し続けるであろうという意志をフランス側に示したのである。
マーフィー・ウェイガン協定が成功したため、1941年春、国務省は、マーフィーを正式に米国アルジェリア領事に任命した。マーフィーの任務には、外交業務のほかに、アルジェリアや「食糧管理官」の職名でフランス領北アフリカでの活動が許可されていた12人の副領事の所在地で展開される秘密情報収集活動を指揮することも含まれていたのである。
(以下次号)
(ちょうなん・まさよし)

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