特別志願将校と特別甲種幹部候補生―当時の常識は記録に残らない(2) (荒木肇)

陸軍士官学校はじめに
 先週はお休みをいただきました。陸上自衛隊の学校での講話などがたまたま連続し、また、自分自身の資料集めの都合もあり、たいへん失礼をし、お詫び申し上げます。
 目黒の陸自幹部学校では陸軍大学校の系譜を引くCGS学生の皆さんに、歴史の見方をお話しました。私の専門の日露戦後から大正期の話ばかりではなく、江戸時代までも含めた内容です。
『歴史を学ぶには大いなる問いが必要だ』という吉野作造の言葉を冒頭に使いました。そこで私自身のことを説明しました。幕末に長崎に来たオランダの海軍士官がいます。長崎の防衛について、有力な町役人に尋ねると、彼は「そういうことはお武家さまが考えることだ」という。戦争や、国防なんて自分たちには関係が無い、そう答えたといいます。そういう国民が、わずか一世代30年あまりで、自分たちの存亡を賭けた、大きな対外戦争を2回もしたのです。
 その間には、一体何があったのか? どういう事情が、そこまで国民を変えたのだろうか? 私の歴史調べには、いつもその問いがあります。
 へこ太郎様、ご投稿ありがとうございます。テレビドラマを作られる側からのご証言、たいへん楽しく承りました。ことは近現代のことばかりではなく、戦国時代や鎌倉時代のことまで考えると大変なことですね。そうは思いながら、私たちの「日本刀神話」や「チャンバラ好き」も深い原因の一つ、簡単には変えられません。
 実際のところ、革製であっても、まず鎧は日本刀では斬れないのです。鎖帷子(くさりかたびら)など着ていたら、まず斬撃には耐えられます。危ないのは矢や、槍だったようです。また、長い槍は、ほとんど叩き合いに使われました。宮本武蔵の教えを持ちだすまでもなく、刀はほとんど片手扱いです。それが時代劇や大河ドラマでは、しばしば鎧武者が刀を両手で握ってチャンバラをしています。竹刀の剣道は、鎧で守られているところばかりを打突する。あれは実際の鎧を着ている時の戦い方ではありませんね。
 K様、伯父上が久留米予備士官学校におられたとか。「現役将校」の不足対策、確かにそういうことから特別甲種幹部候補生制度はつくられました。ただ、後に述べますように、百人斬りの冤罪を受けられた向井氏は特別志願将校ではないかと思います。また、陸軍はそうした予備役将校が現役になるには陸軍士官学校丁種学生の1年間の教育を規定していました。今回は、そうした制度のことなどを「よくある質問」へのお答えとして書いてみます。
自民党の「国防軍」という言葉
「軍」にする、ではいけないのでしょう。国内対策用に考え出した名称ですね。では、陸上自衛隊はどうなるのでしょうか。「日本国防陸軍」ですか。略称では、陸自はリクボウグン、海自はカイボウグン、空自はクウボウグン。どこか落ち着きのない奇妙ないい方ですね。過去の日本語にはない言葉なので戸惑うのです。いつか、馴染むのでしょうが。
 英語表記ではJGSDFからJGDFにすれば済みます。FORCEをどう訳すのか、軍でも隊でもどちらでもいい。アメリカ空軍は、USAFであり、空自もJDAFにすればいいわけで、外国人からはどうでもいいことでしょう。知り合いの米軍関係者は、誰もが「Your Army」とか、「Japan Army」と言ってくれています。もっと事情通の米軍人は、日本語で「ジエータイ」と言ってくれますが。
 階級呼称も問題ですね。リクシ(陸士)、カイシ(海士)、クウシ(空士)も馴染んでいるし、ソウ(曹)も大丈夫。問題は幹部(士官)でしょう。以前から1等陸尉よりは大尉だろうと仰る方が多い。たしかに、大(主になる)、少(助ける)、間にある中という言葉は、古代律令体制からの由緒ある日本語です。明治初めに「1等、2等海(陸)軍将」という階級名がなくなったのは、当時でも人に等級をつけるのはいかがか、という議論があったからでしょう。ただし、下士官や兵卒には、上等、1等、2等を使いました。
 個人的な好みで言えば、やっぱり、「大将・中将・少将」がいいですね。古くからの官名でもありますが、警察の警部補に似た「将補」はどうも好きになれません。
「現役将校」と間違えられる「特志将校」
 予備役将校、これには2種類がありました。現役将校が事情あって予備役に編入された人と、幹部候補生から予備役少尉になった人とでした。この予備役将校が部隊に服務する場合の入隊の方法はいくつか種類がありました。
(1)召集による方法
『予備役ノ将校ハ戦時又ハ事変ノ際之ヲ召集ス(陸軍武官服役令第32条)
平時ニ在リテハ勤務演習ノ為之ヲ召集スルコトヲ得』
 戦時又は事変の時は充員召集、臨時召集、これはいわゆる赤紙(アカガミ)です。
 勤務演習のために召集する時は白紙(シロガミ)、演習召集という。
 そして、「陸軍召集規則」には、『充員召集トハ動員ニ当リ諸部隊ノ要員ヲ充足スル為「在郷軍人」ヲ召集スルヲイフ』とあります。
(2)志願による方法
 志願によって勤務する例のもっとも主流になったのは、次の「特別志願将校」です。
 1933(昭和8)年の勅令第12号を参照します。
『陸軍ノ軍隊、官衙又ハ学校ニ於ケル佐、尉官ハ補充上ノ必要ニ依リ当分ノ内陸軍ノ予備役ノ佐、尉官ヲ以テ之ニ充ツルコトヲ得。其ノ身分取扱ハ・・・召集中ノ者ニ同ジ』
 重要なのは、「召集中の者に同じ」とあり、現役扱いにはならないのだということです。
 軍隊では同じ階級であっても、任官が早いか遅いかによって上下の区別が厳密でした。また、予備役から召集された人は幹部候補生出身であろうと、陸士卒の人であろうと、召集された日に同階級の現役将校や、すでに召集されている人の下になりました。そして、予備役で召集中の人の進級は、なかなか難しかったのです。
 日華事変(1937年)からは、長い間、召集されている予備役将校も進級がしやすくなるよう法改正もされました。それでも、現役少尉が1年半で中尉になるとすると、予備役の人は2年、あるいは2年半という時間が必要でした。
 このような話は複雑ですが、もう少し続けます。平時と戦時の区別があった陸軍は平時から現役将校が就くべきポストが決まっていました。また、各連隊などでは、どの将校にも戦時職が決まっており、召集される予備役将校にもそのポストがありました。ところが、人手が不足してくると、本来、現役将校が就くべき定員になっている職務に、応召予備役将校が就く例も増えました。
 たとえば、各中等学校や高等教育機関に配属される陸軍現役将校です。学校配属将校は現役でした。したがって、戦時になって自分の部隊が動員されれば、戦時職に就くために学校を離れました。その穴を埋めたのが、「特別志願将校」でした。1933(昭和8)年、「特別志願将校」の採用数は兵科800名、経理部80名、獣医部20名でした。
現役になる道「士官学校丁種学生」
 では、幹部候補生出身の予備役将校が現役になるのはどうでしょう。これがなかなか難しいのです。1939(昭和14)年、ついに陸軍は、希望する予備役将校を現役に転役する道を開きます。それが陸軍士官学校丁種学生の制度です。これが1年間の課程でした。同じように海軍も「予備士官」が現役になれるよう制度を改革しました。予備員の士官は砲術学校などで10カ月の教育を受けなくてはなりませんでした。
 よく戦前陸海軍の人事の硬直化と批判されますが、いくら部隊で有能であっても、それだけでは永年勤務の現役将校にはなれませんでした。制度は一般社会と連動しています。とりわけ人事制度は軍隊の骨幹でもありました。陸海軍はいつでも復員(動員解除)を考えています。すると、やみくもに現役将校を増やすわけにはいかなかったのです。
 アメリカ軍の例で言えば、「パーマネント・ランク(永久階級)」といういい方がありました。有名なのはマッカーサー元帥です。第1次大戦の時には、ふくれあがった軍隊で、マッカーサー少佐は37歳で大佐に進み、師団参謀長を務め、のち准将として旅団の指揮をとりました。しかし、復員後にはまた元の平時階級(パーマネント・ランク)の中佐に戻ったと記憶します。
 こうしたことが戦前社会で出来たでしょうか。年功序列や、専門性がうるさく言われる社会でした。また、現役将校になるということは、平時にはその階級相応のポストに就かなければなりません。それにふさわしい能力・資質を養うために、教育をしなければなりませんでした。戦争に敗れ、軍隊が消滅した現在、いくらでも過去の批判ができますが、国民国家の軍隊は、その国民性や社会のレベルを反映します。今の私たちもどれだけ、その硬直性から抜け切れているでしょうか。
 丁種学生は年間700名くらいという資料もありますが、私は確認できていません。Kさんが例に挙げられた向井さんの場合、士官学校へ1年間入校していたという記録は不勉強ながら知りません。もし、向井さんのご軍歴の中に、丁種学生であられた記録があるなら、まさに現役将校でしょう。あるいは、下に書くように、1945年の制度適用者なら向井さんは現役の少佐になられていたのでしょうか。
 さて、1945(昭和20)年には、1年間の派遣もできないようになり、陸軍大臣が選考して現役将校への道が開かれました。ただ、その実数はよく分かりません。
「特別志願将校」が現役と間違えられやすい理由
 本来、特志将校は、在郷中(軍務を離れ一般世間で暮らしている)の予備将校から採用するのが本筋でした。最初の頃は、「ああ、あの人は応召して志願したらしい」という言い方がされたでしょうし、「志願して軍隊に戻ったらしい」というとらえ方がされたに違いありません。そういう時代には、現役に復帰したという誤解はなかったことでしょう。
 ところが、この制度が普及して、在隊中の人たち、つまり在郷の期間が無い人たちが志願するようになると誤解の始まりが起きました。幹部候補生の見習士官、これは現役中ですから引き続き志願をされると、「陸軍省令第7条」により、所属部隊長に願書を出し、順を経て陸軍大臣に進達され、採用の可否が下されました。
 ご承知のように、幹部候補生出身の見習士官は現役です。入営から2年間は現役で、少尉任官と同時に予備役編入、同時に召集され、そのまま部隊にとどまる例が多かったことでしょう。戦況がおもわしくなかったころ、どうせそのままの部隊。どうせそうなら、召集の身分より志願した方がいいと判断した人も多かったことでしょう。在隊期間が継続していますから、これが、そのまま、「特志」が「現役志願」と混同されている原因だと思います。
少尉には間に合わなかった特別甲種幹部候補生
「トッコウカン」といわれた制度は、前回お知らせした「トッカン=陸軍特別幹部候補生」と対になっているものです。臨時特例で、予備役下士官の養成をねらった特幹と同じく、特別甲種幹部候補生もあくまでも永久措置ではありません。
 1944(昭和19)年5月に、陸軍の兵科と経理部の予備役将校養成のために始まった制度です。この制度に先行したのは、前年の学徒出陣に備えた「陸軍特別操縦見習士官」制度でした。「特操=トクソウ」と略称されました。海軍予備学生の制度と似ています。当時、高等教育機関にいた学生・生徒の中には、「馬糞くさい」陸軍は不人気でした。その上、陸軍の幹部候補生になるには、「学校教練」の修了証が必要だったのです。
 トクソウは学校教練の成績は不問、しかも入隊と同時に曹長見習士官の階級章を与えられ、教育期間1年半で予備役少尉に任官するものでした。実際には、基本操縱5カ月、ここで機種別の選考がされ、機種ごとの教育飛行隊で4カ月、その後4カ月の錬成飛行隊で卒業。ほぼ1年で、これも海軍予備学生と同じです。昭和18年の繰り上げ卒業の学生・生徒から2654名でした。続いて学徒出陣組からは1136名という採用です。
 トッコウカンはこのトクソウとこれまでの甲種幹部候補生制度をすり合わせ、一般兵科と経理部に拡大したものでした。軍医官や技術部将校にはすでに「短期現役」という制度があり、優遇措置がありましたが、兵科や経理部にはそうしたシステムがなかったのです。
 トッコウカンは入隊と同時に伍長の階級を与えられ、教育期間も1年6カ月とされて、海軍とのバランスを取ろうとしていました。ただし、学校教練の修了が必須要件だったところに陸軍の意地がみえます。実際には期間が短縮されたのもトクソウと同じで、最初の採用は1944(昭和19)年10月でした。卒業が翌年6月で、見習士官を命じられたので、少尉には間に合わなかったということになります。Kさんの叔父上は、つまり、現役中にたぶん終戦を迎えられたということでしょう。ある小説の間違いだと思われるデティールはそこに問題があるのです。
陸軍予備士官学校はどういう学校でしたか
 1938(昭和13)年には幹部候補生制度の大きな改革がありました。それまで、1年間の現役しかなかった幹部候補生は、他の兵士たちと同様に、2年間の在営(現役)となりました。各聯隊で兵としての教育、各学校での将校候補者教育、そして聯隊での見習士官勤務を合計2年間積んで予備役少尉になったのです。
 最初は仙台で、続いて翌年、岩手県盛岡に歩兵のための予備士官学校ができました。次には豊橋(歩兵・砲兵)、福岡県久留米に輜重兵と歩兵のための学校が置かれました。最終的には、仙台(歩兵)、前橋(歩・砲兵)、豊橋第一(歩・砲・工兵)、同第二(歩兵)、岡山県津山(歩・工兵)、久留米第一(歩・砲・工・通信兵)、久留米第二(輜重兵)の各学校で予備役将校の教育がおこなわれました。その他、外地では保定(支那)、南京(同)、石頭(同)などで幹部候補生隊として同じような内容で教育がありました。
 多くは自衛隊の駐屯地が場所だけは引きついでいることが多く、中でも前橋、久留米は有名です。群馬県前橋予備士官学校は今では、空中機動旅団である第12旅団の相馬原(そうまがはら)駐屯地になっています。また、久留米の学校跡地は現在も陸自の幹部候補生学校として使われて、よき伝統を継承しています。
 ただし、騎兵学校や砲兵学校といわれた実施学校でも幹部候補生隊を編成し、同じような教育内容でした。だから、大東亜戦争末期の陸軍将校は、受けた教育の場所だけでも大変な種類だったのです。
よく聞かれる技術部将校と技術将校の違い
 陸軍は技術を軽視したといわれるが、さまざまな事情を考えると、そうも言えないように思えます。陸海軍の軍事予算は、割合でいえばたしかに大きなものでしたが、当時(大正・昭和戦前期)の国民総生産から考えれば5%くらいのものでした。軍事予算が一般会計に占める割合ですら、欧米列国と比べては同じくらいです。それでいて、国民所得が欧米の8分の1くらいでしたから、あれだけの大艦隊を維持するとなると兵器や技術の開発費や研究費にしわ寄せがくる。そういった事情も考えなければなりません。
 さて、各部将校の一員である技術部将校はもとはといえば「陸軍技師」と言われた高等文官を武官にする措置から生まれました。したがって、出身は帝国大学の理工学部出身者、官立公私立の理工系専門学校出身者です。見習士官を経て前者は中尉、後者は少尉が初任でした。これは学歴相当の考え方で、同じように海軍造船、造機、造兵などの士官も同じです。
 この他に、士官学校卒業者で実施学校である「陸軍砲工学校」の高等科卒業生のうちから、優秀者が選抜されて帝国大学員外学生として学位をもった将校もいました。こういう人は「技術将校」と畏敬されていわれましたが、彼らはあくまでも兵科将校の中で、技術を中心に学んだ人というわけです。ただ、この人たちは技術部が創設された時に転部の意思を聞かれた所、全員がNOと答えたわけで、兵科将校でなくては軍隊指揮権がない。そのことにこだわったのだと思えます。
 なお、技術部将校の中には技術部准士官、下士官から技術部少尉候補者課程を経て任官した人もおりました。
 参考までに、『現役将校科別概数表(『陸軍省人事局長の回想』)』をご紹介しましょう。
 1945(昭和20)年9月の数字です。
 現役将校の総人員は4万8236名でした。各兵種(歩・砲・工・騎・輜重・航空の元兵科)が2万8236名ですから、全体の58.5%。続いて多いのが技術部で6725名でした。同じく13.9%を占めます。そして軍医が5721名、同じく11.9%。主計は3442名ですから7.1%ということです。このほかに計理部には685名の建技将校もいました。
(以下次号)
(あらき・はじめ)

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