主計大尉N氏の記録(1) (荒木肇)

第一空挺団の勇姿 http://wodakahirokix.at.webry.info/200804/article_6.html未熟な人の危険な発言
 また始まったか、いつもこうなる。何か外患があると、必ず勢いのいい人が出現する。こう思わされたのは他でもありません。陸上自衛隊のある学校での祝賀会食の席でした。
 来賓の代表として登壇されたのは若い国会議員です。さっそく内憂外患、いや順序で言えば外患から、尖閣問題にふれたうえでこう言いました。
『皆さん、自衛官のお顔を見ていると、もうしっかり戦争ができるんだ。やってみせるぞという気合がよく分かりました』
 こういう政治家やマスコミ人は満洲事変(1931年)の前後にもいました。当時の右翼団体の壮士たちも関東軍の参謀に『腰の刀は竹光か』と嘲弄(ちょうろう)するような言葉を吐いたそうです。昨日、『戦争ができる』の発言主は政権与党の代議士でした。自衛官に迎合する気分もあったのでしょう。あるいは、壇上に上げられ、思わず気分が高揚したのかも知れません。
 しかし、軽々しく戦争という言葉を、現役の『武人』の前で使ってはいけないと思います。なぜなら出かけるのは自衛官だからです。しかも、人の心をのぞき見するかのように、『戦争ができる』という自衛官の覚悟を勝手に分かった気で話す。満洲の壮士はまだいい。排日テロがいつあるか分からない所にいたし、身に危険が迫ることもあったことでしょう。それに比べて、あの与党国会議員の日常はどんなものなのでしょうか。
 戦争は仕方ない事態なのかも知れません。ギリギリの決断の結果、やむを得ず武力に訴える。それもまた、国家の存続・威信に関わり、大切なことだと思います。でも、皆さん、真っ先に出かけるのは自衛官であり、海上保安官です。
 私は自衛隊員を信頼しています。彼らは政治が決断したら、粛々整斉と任務にあたることは間違いありません。だからこそ、政治家が軽々しくも「戦争ができる」などと言葉を発してほしくないのです。
ある経理部将校の実戦記
 古い人の中には、主計官とか主計将校という方もいる。しかし、正確には陸軍経理部将校である。
 ふつうに陸軍将校というと「兵科将校」だけをいった。兵科将校とは、軍隊指揮権をもつ砲兵、工兵、歩兵、騎兵、輜重兵、航空兵、そして憲兵科の高等武官をいう。その他の各部、すなわち衛生部、衛生部、獣医部、軍楽部の高等武官は将校相当官といわれ、1937(昭和12)年まで将校ではなかった。あくまでも相当官であり、階級の呼び方も「○○総監」、「○○監」(以上は将官相当官)、「○等○○正(佐官相当官)」、「○等○○(尉官相当官)」と
いわれていた。
 1940(昭和15)年になると、兵科は憲兵以外が統合されて、「歩兵少尉」とか「砲兵少佐」(すべて陸軍をつける)などといわれずに、ただの「陸軍少佐」や「陸軍少尉」とだけになった。その時には、各部は技術部(兵技、航技)、経理部(主計、建技)、衛生部(軍医、薬剤、歯科医、衛生)、獣医部(獣医、獣医務)、法務部、軍楽部に分かれていた。
 私は貴重な私家版の手記をもっている。20年近く前のこと、ある研究会で知り合った元主計大尉だった方からいただいたものである。仮にN氏とする。もちろん著作には自由に使っていいとお許しをもらった。何度も手紙の往復をさせていただき、ご指導、ご教授もいただいた。
 簡単にご経歴を紹介する。
 現役兵として1939(昭和14)年1月10日に歩兵第12聯隊 留守隊に入営。
 3月に満洲に派遣されていた第11師団に転属する。
 4月には東安省密山県密山に到着。歩兵第12聯隊に編入される。
 5月に経理部幹部候補生に採用。一等兵になる。
 7月、上等兵の階級に進められ、20日に甲種幹部候補生。
 9月、陸軍経理学校に入校する。
 11月、主計伍長。
 昭和15(1940)年2月1日、主計軍曹。
 同月28日、経理学校卒業、曹長に進み、経理部見習士官を命じられる。
 6月、河北省天津の第27師団司令部要員として派遣される。
 8月、唐山の支那駐屯歩兵第1聯隊に転属。
 10月31日、現役満期。
 11月1日、予備役に編入、臨時召集を受け、主計少尉。引き続き勤務。
 17年8月20日、主計中尉に進級し、聯隊高級主計。
 18年4月25日、近衛歩兵第1聯隊に転属、5月10日に召集解除。
 
 19年2月16日、臨時召集により山砲兵第55聯隊補充隊に応召。第10野戦補充隊。
 3月14日、満洲牡丹江にある第10野戦補充隊仮第4大隊附。
 4月、湖北省応城県にある同隊第7大隊附。
 5月、第131師団独立歩兵第597大隊附。
 8月、主計大尉に進級、10月に安徽省安慶に勤務。
 21年3月、復員、召集解除。
 
志願ではなく経理部に
 
 N氏が官立高等商業の学生だったころ、学生には徴集猶予の制度があった。それは、徴兵検査は本来、その前の年の12月1日からその年の11月30日までに生まれた「帝国臣民(日本国籍をもつ)」の男子が受験するものだった。各地の総督府のもとにある「民籍(朝鮮人や南洋庁民などの人民)」の人にはなんの関係もなかった。
 よく混同して使われることがあるが、「徴集」とは受験者(壮丁)の「役種(えきしゅ)」を決定するものであり、召集とは区別しなければならない。役種というのは、現役か、補充兵役か、第一国民兵役かというような「役」である。この検査を、当時の中等学校以上の在籍者は卒業まで免除されることになっていた。
 したがって、N氏の場合は、卒業した昭和13(1938)年の4月には某大企業の新入社員として入社、企業人のまま徴兵検査を受けた。検査場では「第一乙種合格」と判定される。徴兵官は「現役を志願するか」と聞く。すでに支那事変が拡大しているとき、第一乙種にも入営がきっとあるだろう、それなら幹部候補生としてご奉公しよう、そう考えてN氏は「志願します」と答えた。
 同年末、四国丸亀の歩兵第12聯隊補充隊に入営する。補充隊というのは、すでに第11師団は野戦にあり、歩兵第12聯隊も戦時編制をとって支那に出征していたからである。
 学校歴がある者は幹部候補生試験を受けた。合格するとただちに1等兵の階級になる。ふつうの現役兵はどんなに早くても丸一年後である。試験そのものは難しい内容ではなかったとN氏はいう。
そのとき、内務班長が、
『今年の初め、いろはのいから教えた兵隊さんが、来年春には見習士官になって帰ってくる。自分が衛兵司令(衛兵の長で下士官)にでもついていれば、衛門で『捧げ銃』の敬礼をせねばならん。本当にかなわんな』
と語った。
 14年5月1日、満洲で幹部候補生に採用の命令が出る。ほかに2名ほどの兵が経理部を志願したが、彼らは兵科に回った。とくに志願しなかったN氏だけが経理部である。経理部現役将校は陸軍経理学校卒業者、あるいは大学、高専の学生からの養成だった。彼らの専攻は法律・経済・商学・工学である。工学とは、のちに建技将校が制度として発足したが、建築・土木学専攻の学生がいたからである。
 次回からは、一人の主計大尉の手記から、さまざまな経理補給の実態などを紹介したい。不覚にも風邪をひいてしまい、体調が不十分であり、今回の記述は短かった。読者の皆さんには申し訳ない気持ちである。お詫びします。
 
(以下次号)
(荒木肇)

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