「メッケルの指導―兵站の仕組みという難問(1)」(荒木肇)

メッケル少佐はじめに――森林太郎は脚気の原因をどう考えていたか?
 蘇州在住のN様、お便りありがとうございます。森軍医総監が死ぬまで伝染病説をとっていたという批判?があることは聞いたことがあります。逆に、それはどのような確証、つまり、森が発表したどんな論文や行動からまとめられた推論でしょうか。
 いずれであれ、大問題について、明確な書き方をしなかった私に責任があります。
 結論からいえば、森は著書である衛生学書の改訂出版を1914(大正3)年に行いました。そのことが、彼が過去の言説(脚気病原細菌説)を撤回した証拠になると思います。また、彼は医学者である以上に、軍医官たる軍人であり、軍の衛生行政の頂点にまで登りつめた人でした。だから、彼がどう思っていたかについては、彼の論文や言動の記録、行動を見ての推論しかできないと考えています。
 ここからは、医学史の権威である山下政三氏の研究から示唆を受けたことを基にしています。『衛生新篇』という共著があります。1897(明治30)年に同僚だった小池正直とともに、森はその第1版を出しました。その後、改訂が3回され、自らの退官を意識したであろう森は、第5版を上梓します。その中の疫種の章に初めて「脚気」がのりました。
 その詳細は煩雑であるので省きますが、まず、医史学の大家の説、伝染病説(東京帝大医科大学長青山胤通)、細菌学のコッホ、臨時脚気病調査会の専門委員、そしてビタミン研究の第一人者鈴木梅太郎の諸説を紹介するように並べています。ここには森自身の見解が書かれていません。おかげで、森が最後まで細菌説だったという誤解が生まれたと山下氏は指摘しています。
 山下氏も紹介されているように、この明治最末期から大正の初めごろ、脚気医学はたいへんな混乱の時期にありました。まず、オランダの医師エイクマンが当時の蘭領インド(いまのインドネシア)の風土病ベリベリの研究からニワトリの脚気を発見したのが明治22(1889)年。これが紹介されたのが、わが国では1897(明治30)年のことでした。このエイクマンの研究は次の通りでした。
 ニワトリを白米だけで飼うと脚気になる。この脚気は人間のベリベリ(脚気)と同じである。玄米や籾米を食べさせると脚気にならず、米ぬかを食べさせると快癒する。これがドイツの医学雑誌に掲載されて、各国の医師が追試験をします。結果はすべて、エイクマン説の正しさが証明されました。(そして、のちに米ぬかの中から人類がそれまで知らなかったビタミンが発見されます)
 これが明治末期にわが国に紹介されると、大反響を呼びました。同時に、ニワトリの脚気とヒトの脚気はほんとうに同じものかという論争が始まります。そして、ヒトの脚気に米ぬかが効くのかという論争に発展しました。同じだ、だから米ぬかが効くのだという説の支持者は、都築甚之助(陸軍2等軍医正)、遠山椿吉(東京衛生試験所長)、鈴木梅太郎(東京帝国大学農科大学教授)という人たちでした。
 逆に、同じではない。米ぬかは効かないという主張をしたのは東京帝大医学部の学者(臨時脚気調査会の委員)たちです。
 混乱の第2は伝染病説が信じられていたのに、肝心かなめの病原菌が発見されておりませんでした。青山胤通や三浦謹之助という人たちは想像でしかものを言っていません。しかも、この1914(大正3)年には、青山が新著『脚気病論』で、三浦のドイツ語論文『脚気』、それに林春雄の講演などですべて伝染病説があらためて主張されました。
 3つ目の混乱は、ぬかの有効成分の化学実体が、なお不明だったことからでした。オリザニン(鈴木)、アンチベリベリン(都築)、ウリヒン(遠山)、ビタミン(フンク)と名づけられた有効成分は、すべて不純物であり、どういう化学物質か純粋に取りだされてはいなかったという技術の限界もありました。
 そういう時代だったのです。だからこそ、森林太郎は公平に、すべての説を並列するしかありませんでした。また、森は委員長としてインドネシアのベリベリ研究を決裁し、現地調査団も派遣しました。都築軍医正も出かけた研究者の1人です。その上、森は米ぬか有効説を発表し、同調者が少ないことから委員を辞任した都築を励まし、明治44(1911)年には、調査会で発表までさせました。
 そして、混乱が収束したのは、森が予備役に服したあと、なお臨時委員を務めていた大正8(1919)年から10年ころでした。この間、森は総会に熱心に出席し、大正6(1917)年の田沢鐐二のビタミン説を認めています。また、議長を代行した大正7年の第19回総会では、東京帝大の学者が米ぬかエキスの有効性を発表することを見つめていました。そして大正8年には偕行社で田沢の『ビタミン欠乏主因説』が主張されたのです。
 こうした動きについて、森は一言も反論したり、妨害したりしていません。たしかに森は、兵食の問題で、海軍の高木兼寛に激しく反対し、麦飯給付にも納得していませんでした。それは、若いころに、ドイツ人医師ベルツの強い影響下にあったこと、また、医学界の大立者石黒に引き立てられたことからきたこともあったでしょう。そして、海軍対陸軍という、どこの軍隊にもあるといわれる対立意識。これもあったことでしょう。
 しかし、晩年には「学理」にてらして納得できることなら、彼はむしろ正々堂々と賛成するという気分になっていたに違いないと思います。ベリベリに着目したこと、都築軍医正を励まし続けたことなどが、私には彼が軍人らしく誠実だったことを表していると考えております。
 大正11(1922)年7月9日、鴎外森林太郎は満60歳で亡くなりました。
 N様、日露戦争で凱旋されたお祖父さまのこと、ありがとうございます。金鵄勲章も受けられたとのこと、輸卒としてよほど功績があったのではないでしょうか。私の曾祖父も、1年志願兵出身の砲兵軍曹で戦死しました。くだされたお金で祖父は育ちました。おかげでいまの私たちがあります。戦闘を支えた輜重兵、輸卒の方々、砲兵輸卒の方々をはじめ、歴史の表舞台に出なかった方々にも感謝の念をもつ毎日です。
兵站について
 ロジスティックスの訳語で有名な言葉である。ちょっと昔、外務省の公金不正経理が話題になった。「ロジ坦」という人たちが役所の中にいて、外務省の高官が海外に出る時など接遇や周囲への根回しなどに活躍?したらしい。官僚組織のもつ、ひどく嫌な部分の話だった。もちろん、逮捕されたのは下級の役人たちである。
 高級官僚はそれにふさわしい給与を得ているはずだ。規約で定められた出張費や、それにかかる経費なども公金から出されるはず。それを超した分は、自らの給与の中から支払うべきで、それをなんと恥知らずなことに、下級の役人が悪事を働き捻出した公金を使っていたらしい。がっくりする話である。それにロジスティックスという言葉を使う。外務省とはなんと下品な役所であり、品性のない人間が組織の上にいたものだ。
 自衛隊では「兵站」という言葉がいまも使われている。何事によらず、「兵」や「軍」という言葉がタブーだったはずの自衛隊。海自には「兵曹」という言葉はなく、陸自にも「軍曹」という階級名もない。しかし、ロジスティックス、こればかりは「後方」と訳す他には兵站というしかないだろう。陸自の師団にある後方支援連隊は、たしか英語表記ではロジスティックス・レジメントのはずである。
 来月早々には、陸上自衛隊武器学校に講話に出かける。対象は『兵站FOC学生』の皆さんである。FOCとは幹部特修課程、フィールド・オフィサー・コース、3佐(少佐)クラスが学生で、専門家養成の課程。各科におかれているが、兵站FOCの皆さんは、武器科、需品科、輸送科などの後方支援職種の方々のことである。
 この前、日露戦争時の輜重輸卒や砲兵輸卒などの雑卒といわれた軍人の話をしたが、さらに、「兵站」そのものの話をしたい。
兵站、メッケルの指導
 メッケルといえば、NHKの『坂の上の雲』でも有名になったドイツ軍人。まるで兵站・補給に関心がうすかった日清戦争(1894~5)前の陸軍軍人たちにさまざまな教育を施した。1885(明治18)年、来日早々、茨城県で陸大学生を率いて「参謀旅行」を実行する。いまでいう「現地戦術」である。実際の地形に合わせて、実地で参謀将校を養成する授業であった。
 そこでは司馬遼太郎氏の作品でも有名だが、ある少佐はメッケルに「食糧の補給と集積は?」と問われ、正直に「梅干を集めた」と答えたらしい。他にもずいぶんと、危険なやりとりがあったという。学生たちは誇りばかりが高かった士族ばかり、メッケルの厳しい指導に腹を立て、腰の帯剣を抜いた人までいたらしい。
 これにこりた陸軍は、翌年の参謀旅行の前に『準備講義』をメッケルに依頼し、輸送と輜重についてのレクチャーが行われたという。その中で、メッケルは、『自分が日本の地形を観ると、道路は狭縊(きょうあい)、橋梁は堅固ではない。その上、いたるところに山あり田あり。野砲の運転にはきわめて悪条件、したがって師団には山砲をつけて、輜重および行李も駄馬編成にすべし(意訳)』と述べたらしい。
 これらの結果から、輜重兵大隊は改編され、「行李(こうり)」、「兵站縦列(じゅうれつ)」、「輜重監視隊」の定義が定められた。
 輜重兵大隊の改編は大きなものだった。それまで大隊本部と2個中隊で編成されていたものが、戦時編制では本部と「糧秣(りょうまつ)縦列」が5個、そして馬廠(ばしょう)が1となった。縦列はおそらくTRAINの訳語だろう。
 平時の輜重兵大隊にあった各中隊が戦時編制になると縦列になった。人員規模も予備役将校下士兵卒が召集され、大きなものとなった。糧秣とは、人が食べる食糧と馬用の秣(まぐさ)の意味である。馬廠は100頭あまりの軍馬を管理し、補充、治療などにあたる。
「行李(こうり)」は大小2種に分けられた。『戦闘中必需ノ物品ヲ載スル者』が小行李。『宿営地ニ於テ要スル所ノ物品ヲ載スル者』を大行李という。小行李は軍隊に直従し、大行李は「ヤヤ隔離シテ其ノ後方ニ随ハシム」とされていた。
歩兵大隊行李や師団単位の兵站縦列
 中隊は戦闘単位であり、大隊は戦術単位である。歩兵中隊は200人規模だが、大隊には4個中隊があり、総員は1000名にもなる。同じ釜の飯を食う最小単位が中隊であり、カンパニーといわれる。それらを4個も集めると、メシばかりか補給、経理、衛生その他の面倒をみるので、平時には6~7人の大隊本部が大きく200名近くにもふくれあがる。
 参謀旅行記事によれば(偕行社記事)、小行李は衛生駄馬3頭、弾薬駄馬16頭である。大行李は将校荷物駄馬7頭、炊事具駄馬8頭、糧秣駄馬12頭だった。
 各師団ではそれぞれ、「兵站縦列一個」が基幹部隊としてつくられた。これは師団が複数個で集成された軍直轄の輸送部隊で、後方の倉庫と師団集積地の間の糧秣輸送にあたる。
 このほか師団には「輜重監視隊」3個が編成される。
 手元の日露戦争の従軍記の中に、召集された歩兵軍曹が、戦場で現役時代の同僚に出会う場面があった。
『たしか隣の郡出身の現役時代いっしょだった○○軍曹である。なぜか、騎兵服を着ていて、手に鞭をもって、乗馬長靴をはき、騎兵刀を吊っている。聞けば、監視隊だという。将校以下50名の部隊で、全員、乗馬だとのこと・・・略(現代語訳)』
 多くの軍夫とわずかの輜重兵だけで編成された「輜重縦列」を統括、管理、護衛する完全乗馬編成の戦闘部隊を輜重監視隊といった。有事に召集される部隊だから、予備役の下士などは馬に乗れれば、歩兵だろうが工兵だろうが「騎兵服」を着せてしまったのだろう。
明治24(1891)年の野外要務令から
 ○歩兵大隊大行李の編制
 荷持駄馬9頭、炊事具駄馬8頭、糧秣駄馬13頭、予備駄馬2頭、馬匹合計32頭。尋常糧秣 精米6合、塩ないし梅干し、魚菜若干。
 精米6合というのは人員1人当たり1日分の支給量である。魚菜若干とあるから、読者の多くはすぐに気づくだろう。例の「脚気病量産食」である。尋常糧秣は部隊の日常の給食スタイルの給与をいう。炊事具でつくるのだ。
 これに対して、携帯糧秣は「予備糧食」ともいわれている。糒(ほしいい:乾燥飯)を1日3合分とし、調味料は塩若干とある。状況に応じて、「乾麺麭(かんめんぽう)」や「精米」で代用されることもあった。この乾麺麭は東京の「風月堂」が陸軍の発注を受けたビスケットの改良型だったという話もある。
 炊事具はいわゆる鍋釜のことであり、「戦用炊具(せんようすいぐ)」といった。映画の『八甲田山』の考証はなかなか正しかった。遭難した集成中隊はおよそ200名、大きな鍋や釜をかつぎ、薪なども橇に積んでいたことを記憶されている方もおられるだろう。雪の中での行軍では、小グループで火を起こすより、伝統的な戦用炊具による一斉調理がいいと判断されたからだろう。ただし、直に火にかけられる飯盒が開発されたのは日清戦争後の明治31(1898)年である。それまでは、陸軍将兵は大行李の尋常糧秣を、大行李の人員が炊事具でつくった食事を配られていたのである。
日清戦争時の背嚢入組品定数
 まず、革製の背嚢である。重量は2175グラム(以下省略)、村田銃弾薬40発、1835、同手入具45、燕口袋(えんこうぶくろ:先がすぼまって閉じられる袋)にハサミ、クシ、糸巻、糸、針で45、糒(ほしいい)2日分6合で765、食塩100、襦袢(じゅばん・シャツのこと)292、袴下(こした・ズボン下)232、靴下2組95、木綿脚絆(もめんきゃはん・靴とズボンの間を覆う)83、草鞋(わらじ)113、予備短靴750、外套1550、飯盒(1食分)1000の合計9170グラムだった。
 次回は、民間人から集めた軍夫の管理に頭を痛めた陸軍が輜重輸卒を組織化した日露戦争時の兵站の実態をまとめてみたい。
(以下次号)
(荒木肇)

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