吉田松陰先生『天下非一人天下説』

「評。天下は一人の天下に非ずとは、是れ支那人の語なり。支那は則ち然り。神州に在りては、斷々、然らざる者有り。
 謹みて按ずるに、我が大八洲は、皇祖の肇めたまふ所にして、萬世、子孫に傳へたまひ、天壤と與に窮り無き者、他人の覬覦す可きに非ざるなり焉。其の一人の天下たるや、亦た明かなり矣。
 請ふ、必無の事を設けて、以て其の眞に然らざるを明かにせん。本邦の帝皇、或は桀紂の虐あらば、億兆の民、唯だ當に首領を竝列し、闕に伏して號哭し、仰いで天子の感悟を祈りまつるべきのみ而已。不幸にして天子、震怒しまたひ、盡く億兆を誅したまはゞ、四海の餘民、復た孑遺あること無けん。而して後、神州亡びん。若し尚ほ一民の存する有らば、又た闕に詣りて死す、是れ神州の民也。或は闕に詣り死せずんば、則ち神州の民に非ざる也。
 是の時に當りて、湯武の如き者、放伐の擧に出でば、其の心仁なりと雖も、其の爲すこと義なりと雖も、支那人に非ざれば、則ち天竺、歐羅人に非ざれば、則ち利漢、決して神州の人に非ざる也。而して神州の民、尚ほ何ぞ之に與せん哉。
 下、邦國に至りても、亦た然り。今、防長兩國は、一人の兩國也。一人にして在らば、則ち兩國在り焉。一人にして亡びなば、則ち兩國亡びん。不幸にして一人、其の人に非ずんば、則ち兩國の民、當に皆な諌死すべし。若し或は死せず、去りて他國に往かば、兩國の民に非ざる也。山中に隱耕するは、兩國の民に非ざる也。萬一、支那の所謂る君を誅し民を弔ふ若き者あらば、虎狼豺犀、決して人類に非ざる也。
 故に曰く、天下は一人の天下なり、と。而して其の一人の天下に非ずと云ふ者は、特だ支那人の語のみ耳。
 然りと雖も普天率土の民、皆な天下を以て己が任と爲し、死を盡して以て天子に事へまつり、貴賤尊卑を以て、之れが隔限を爲さず。是れ則ち神州の道也。是れ或は以て一人の天下に非ずと爲るや耶。
 又た憤然として曰く、目を開いて神代兩卷を讀み給へ。吾々の先祖は、誰が生んだものか、辱くも二尊に生んで貰うて、日神に教へ且つ治めて貰うて、天壤と窮りなきものが、俄かに君父に負く事、勿體なくはないか。最早や是きり申さゞる也」
『評齋藤生文・天下非一人天下説』(『丙辰幽室文稿』卷三)より

コメント

RSS