「マッカーサー執務室を見学」–朝鮮戦争における「情報の失敗」 ~1950年11月、国連軍の敗北~(23)

From:長南政義
件名:マッカーサー執務室を見学
□はじめに
こんにちは。長南です。
梅雨もあけましていよいよ夏本番となりました。
先週、約10年ぶりに限定公開された東京日比谷の第一生命保険株式会社
日比谷本社ビル(DNタワー21)6Fにあるマッカーサー執務室を
見学してまいりました。
本連載の主人公の一人であるダグラス・マッカーサーが、
連合国軍総司令部(GHQ)最高司令官として、昭和20年9月から
昭和26年4月までの長きにわたり、江戸城日比谷濠を挟んで皇居を
望むビル6Fの執務室から、統治下の日本を見下ろしていたことを
考えると感慨深いものがありました。
本題に入る前に、本連載の舞台となっているマッカーサーの
執務室について解説してみます。
▽第一生命館の接収まで
 昭和20年8月30日、マッカーサーの専用機「バターン号」が
厚木飛行場に着陸し、細いコーンパイプをくわえたマッカーサーは
タラップを降りて日本への第一歩を踏み出しました。
マッカーサーは「メルボルンから東京へ長い道のりだった」との
有名な第一声を発し、先遣隊とともに横浜へと進駐しました。
 マッカーサーの厚木到着から一週間が経過した9月7日、GHQ参謀副長の
イーストウッド准将が工兵隊司令官ケイシー少将と共に第一生命を訪問し、
GHQの庁舎として第一生命館を使用するので了承されたいと申し入れます。
 翌8日、マッカーサーは帝国ホテルで開催される昼餐会に先立って
約20分間ほど周辺を視察し、第一生命館を初めて目にします。
当日、予定では部下の将校がGHQ庁舎として接収される候補物件
を検分するはずでしたが、第一印象でよほど気に入ったのか、
マッカーサー自らが、第一生命館に足を運び第一生命の矢野一郎
常務取締役らの案内で第一生命館6Fの社長室及ひ貴賓室などを
検分します。第一生命館視察後、マッカーサーは視察を予定していた
ほかの物件を見ることなく横浜に帰還します。そして、この日、
イーストウッド准将から接収の内意が口頭で第一生命側に伝えられます。
 9月10日、日本政府から第一生命側に第一生命館を接収する旨の
通知が正式に伝達されます。第一生命配布パンフレットによれば、
「(1)建物の地上部分はすべて接収、地下の使用は会社に任す。
(2)書類を除き家具その他一切の持ち出しを禁止する。
(3)明け渡しの期限は9月15日正午とする」といった事項が通知
されたとのことです。
9月15日正午、第一生命館がGHQ側に引き渡されました。
▽マッカーサーの執務室
 マッカーサーが執務室として使用した部屋は、第一生命館の接収
に伴い、第一生命社長室として使用されていた部屋をマッカーサーが
執務室として使った一室で、現存する机やイスは、第三代社長石坂
泰三氏使用のものをマッカーサーがそのまま使用したものでした。
 執務室の広さは約54㎡(16坪)で、インテリアはテューダー王朝風、
部屋の壁面はアメリカ産のクルミの木、床面は楢・桜・樫・黒檀など
の寄木細工で出来ており、質素ながらも非常に重厚な造りでした。
マッカーサーは「華美を嫌い、質素を好んだ」といわれていますが、
部屋の雰囲気はそのマッカーサーの好みを髣髴とさせるものがありました。
 壁面には英国人画家F.J.オルドリッジの筆による「アドリヤ海の
漁船」「干潮」の二枚の絵が飾ってありましたが、これも接収以前
から社長室に掲げてあった絵をヨット好きのマッカーサーが気に入り
接収後もこの絵をそのままにしておいたそうです。
 特徴的だったのは、執務室の机で、引き出しがありません。
これは、マッカーサーが几帳面で即断即決型の人物であり書類を
入れるような引き出しが不要だったためで、マッカーサーはこの机を
愛用していたということでした。
▽GHQ草案とマッカーサーの一日
 余談ながら、よく誤解される間違いとして、昭和天皇がマッカーサー
と面会し有名な写真を撮影したのはこの第一生命館の執務室であると
いうものがありますが、実際の会見が行われたのは当時の米国大使館
であり、この執務室ではありません。ただ、この第一生命館には、
連合国軍総司令部民政局が置かれ、天皇大権が強かった大日本帝国憲法
を改め、天皇の神格化を否定し日本国の象徴とする日本国憲法の原案
となったGHQ草案が作成されたため、同じ建物内にあった
マッカーサー執務室でも憲法にまつわる話し合いがなされたのかもしれません。
 第一生命配布のパンフレットによれば、マッカーサーの日常は
以下のようなものであったそうです。
 マッカーサーは、午前10時30分に、住居としていたアメリカ大使館
を出発し第一生命ビルに向かい執務を行い、午後になると昼食をとる
ために大使館に一時帰還し、短時間昼寝をした後に再び第一生命ビル
に戻り、夜遅くまで執務したそうです。マッカーサーが部下に厳しく
ハードワークを強いたのは有名な話ですが、第一生命配布のパンフ
レットによれば、「自身もよく働き、目がかすんで時計の針がよく
見えなくなるまでオフィスを離れようとしなかった」そうです。
 ちなみに、現在、マッカーサー記念室として保存されている執務室
にはサミュエル・ウルマン原作の「青春」と題する詩の記念碑が
置かれています。この詩は「青春とは人生のある期間を言うのでは
なく、心の様相を言うのだ。」という一節で有名ですが、マッカーサー
は第二次世界大戦の終結以前から「青春」の詩を座右の銘とし、
執務室にも詩を掲げ、毎日愛読していたといわれています。
▼ウィロビーを悩ませたドイツ出自
 さて前回の連載では、ドイツ人の父とアメリカ人の母との間に
ドイツのハイデルベルクで生まれ、大学卒業までドイツに居た
ウィロビーが、ポール・ニッツエのような大物外交官からも
「ウィロビー(Willoughby)は、ヴィッツレーベン(Witzleben)
大佐と名乗っており、自身の名をウィロビーに改名した。
ウィロビーは第一次世界大戦の間、ドイツ側について戦った」と
認識されるなど、周囲から猜疑心を持った眼で見られていたことを
説明した。さらに、ウィロビーは、貴族的な流儀で他人を見下して
いるような印象を周囲に与えていたため、同僚からも裏で
「チャールズ卿」として呼ばれていた。
 このようなウィロビーの一風変わったバックグラウンドは、
トルーマン大統領のお抱え医師ウォーレス・グラハムをも混乱させ
ている。グラハムは、ウェーク島会談の際、マッカーサー、
ウィロビーおよびトルーマンの三者会談を目撃していた。
グラハムは、トルーマン大統領が会見場を護衛する部隊を最初に
閲兵した後のことをインタビューの際に以下のように述べている。
「それから彼[トルーマン大統領]はマッカーサー将軍および
マッカーサーのG2すなわち情報将校と話した。マッカーサーの
情報将校はドイツ風の名前を持った人物で、自身の名前をウィロビーと
改名していた・・・いや違った、別の名前だった。」
 ウィロビーの家系をめぐる混乱は、ウィロビーのキャリアを通じて
ウィロビーを悩ませると共に、ウィロビーが意図的にプロシア人の
ような態度をとっているという印象を多くの人に与える結果となった。
たとえば、ジャーナリストのフランク・クラックホーンは1952年に
次のように書いている。
「彼[ウィロビー]は、常に粋でカスタムメイドされた制服を好み、
片眼鏡を時々身に着けていた。」
 クラックホーンによれば、ウィロビーの旧敵である日本人も
ウィロビーのユニークな人間性を目にしていたはずであるという。
クラックホーンは以下のように述べている。
「かつて東京で彼[ウィロビー]と働いたことのある並はずれて率直な
日本人は、彼について雄牛のようにがっしりとして強情なドイツ系
アメリカ人将校であったと述べている。彼は鋭く切れる頭をもって
おり、突然かんしゃく玉を破裂させることもある神経質な人でも
あった。」
ウィロビーの人物像について上記のように書いたクラックホーンは、
ウィロビーの人間性に関する自身の評価を次の一言で結論づけている。
「われらのユンカー将軍。」(訳者註:ユンカーとはプロイセンを
中心とした東部ドイツの地主貴族のこと)
 外見から生じるこのような印象に加えて、ウィロビーのスピーチは
1920年代中頃までかなりドイツ風のアクセントが強かった。
ウィロビーがこのような印象を意図的に築き上げたか、あるいはただ
単に他人による偏見の犠牲者であったか否かはひとまず置いておく
にしても、ウィロビーのユニークなバックグラウンドが彼のキャリアに
大きな影響を与えていたことは確実であるといえる。
 では、ウィロビーの経歴や受けた教育が朝鮮戦争における
ウィロビーの対中認識や情報分析にどのような影響を与えたのか、
という問題を考えるために、次回からやや詳しく朝鮮戦争勃発までの
ウィロビーの経歴を見ていくことにしてみたい。
(以下次号)
(長南政義)
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●著者略歴
長南政義(ちょうなん まさよし)
戦史研究家。國學院大學法学研究科博士課程前期(法学修士)及び拓殖大学大学院国際
協力学研究科安全保障学専攻(安全保障学修士)修了。国会図書館調査及び立法考査局
非常勤職員(『新編 靖国神社問題資料集』編纂に関与)、政策研究大学院大学COEオ
ーラルヒストリー・プロジェクト・リサーチ・アシスタントなどを経る。
戦史研究を専門とし、大学院在学中より日本近代史の権威・伊藤隆の研究室で、海軍
中将中沢佑などの史料整理の仕事に従事、伊藤隆・季武嘉也編『近現代日本人物史料
情報辞典』3巻・4巻(吉川弘文館)で大山巌や黒木為もと(木へんに貞)など陸海軍
軍人の項目を多く執筆。また、満洲軍作戦主任参謀を務めた松川敏胤の日誌を発掘し
初めて翻刻した。
主要論文に「史料紹介 陸軍大将松川敏胤の手帳および日誌──日露戦争前夜の参謀
本部と大正期の日本陸軍──」『國學院大學法政論叢』第30輯(2009年)、「陸軍
大将松川敏胤伝 第一部 ──補論 黒溝台会戦と敏胤」『國學院大學法研論叢』第38
号(2011年)などがある。
最新刊 『坂の上の雲5つの疑問』 http://tinyurl.com/7qxof9v
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