自衛官の「任務意識」について – 東日本大震災と自衛隊(4)

はじめに
 これこそが私の「つとめ」だと思うことは、しばしば普段の生活にもある。自分をふり返って、周囲との「きずな」を考える。絆とはしがらみといっていい。自分はどこから来たのか、自分は何者かと考え、自分の役割・立場を考える。すると、状況の中で自分が取るべき処置や対応は自然と見えてくる。それが自分のつとめ、自分がやるしかないと思えば、あとは、ふさわしいと思われる行動をとっていく。
 組織の中にいる日本人は、たいていこうしたものではないだろうか。自分が現在ついている社会的立場からみての役割をきちんと果たそうとする。そうなると、自分と周囲との関係をどうしても考えなければならない。そして、周りにいる人々との連帯感がさらに自分の実行への意思を強く後押しする。このあたりが「自分探し」をしなくてはならなくなる若者とは少し違ったところだ。
 探したくなる「自分」とは、きわめて情緒的で、非社会的なものだ。私たちは近代国民国家の枠の中にいる。そうであるなら、「社会と個」という考え方をしなくてはならない。個とは、勤労をし、税金を納め、社会の成員として義務を果たさなければならないのだ。それこそ、周囲とからみあって、互いの自由を束縛し、絆を確保する。それが近代国家の個というものだ。歴史や周囲と切り離された自分なんているはずがない。
 だから、自分探しの若者は、たいていが外国へ行きたがる。自分とは何かを考えたら、周囲と自分との関わりや、自分のこれまでの人生、社会的役割を一番に考える私たちオジサンとはずいぶん違っている。素のままの己(おのれ)というか、根なし草になった自分を見てみたいのだろう。それでは、ほんとうは何も見えないのだけれど。
 しかし、自分という見方や言い方には、ひどくなつかしい香りがする。明治の昔から近代化の中にあった知識人は、欧米文化に接するとそこに悩みが生まれた。夏目漱石はビクトリア女王が逝去された瞬間にロンドンにいた。日本的しがらみを背負って文部省留学生として暮らしていた漱石は、ひどい孤独の中で苦しんでいたことを書き残している。西欧人の個とは、漱石や私たちの自分とはずいぶん違っているのだ。
 同じようにドイツに陸軍軍医として留学した森鴎外も同じように苦しんでいた。彼は帰国後、かなりの地位に昇ってからもそんな思い出を書いている。自分は子供のころから、勉強する子供、次には学ぶ学生、そして学ぶ留学生、仕事熱心な軍医、実はすべて「舞台にあがった役者のようなもので」、本当の「生」とか、本当の自分はそうじゃないのでは・・・などと書いている。これこそ、欧米風の「近代的自我」に取りつかれている証拠である。わが国で悩まずに暮らすには「役割社会」にどっぷりひたることが一番だろう。
 ちょっと前まで、なぜか、悩んだり、苦しんだりするほうが良心的で、知的であるかのような流行があった。役割を果たそうとしたり、義理や人情を大事にしようとしたりすると愚かであるかのような言い方がよくされた。それも進歩すること、たゆみなく発達することが当然というある種の愚かさの表れでしかない。古い価値観に殉じる者は幸せであるなどというと大げさである。しかし、少なくとも悩み、苦しみ、誠実そうな顔をしながら不幸せの中にいるよりは気楽であることは確かだ。
事に臨んで身の危険を顧みず・・・
 森岡清美という研究者がおられて、『決死の世代の遺書-太平洋戦争末期の若者の生と死』、『若き特攻隊員と太平洋戦争-その手記と群像』という本を書かれた。森岡氏は1923(大正12)年生まれ、東京高等師範学校(のち東京教育大学になり筑波大学)から東京文理科大学(高等師範の上部校)卒業、東京教育大学教授を務められた宗教学者といっていいか。戦死された多くの青年たちと同世代にあたる方でもある。
 これらの本の中で森岡氏が証明されていることが教えに富んでいる。特攻隊員の方々はどのようにして納得し、何に満足して進んで任務を果たしていったのか。森岡氏は、『つとめに努力すること自体に価値を置く努力型自発的役割人間』だったと大東亜戦争末期の特攻隊員を考える。彼らの中に、一緒に死ぬ仲間やそれによって守ろうとする家族や愛する人々に自分を同一化する連帯意識を発見したからだ。
 役割人間といっても、古くからの慣習にしたがっているだけの人間ではない。状況のなかで進んで役割を取得する。その遂行に人生の満足を見いだす。それが自発的役割人間だと森岡氏は言う。しかも、特攻隊員の方々は結果の成否を重視できなかった。任務遂行のプロセスの中で努力する自由しかなかったのである。このことは、前線の現場に身を置く軍人すべてにいえることだろう。
 自分の行為がどんなものの為に役立つのか、どんな意味があるのかにこだわる時間はほとんどない。そんなときに、任務を目の前にした軍人はどう考えるのか?
福島第1原発3号機に水を投下せよ!
 福島第1原発には6基の原子炉がある。うち406号機は定期検査中で動いてはいなかった。大きな事故になったのは1号機から3号機までの3つである。炉心冷却装置は動いたものの、続く津波の襲来で電源がなくなった。1号機は12日、水素爆発を起こす。炉心には海水とホウ酸を注入した。2号機も15日に圧力抑制室付近で水素への引火とみられる水素爆発が起きた。26日には炉心にホウ酸と真水を注入する。
 そして3号機、13日には水位が低下して燃料棒が露出して溶融する恐れが出てきた。真水、続いて海水が投入された。しかし、14日午前11時1分、爆発が起きる。
このとき、自衛官4人を含む11人もの作業員が負傷する。
 政府はとうとう空中からの冷却水投下を決めた。
 その時、第1ヘリコプター団長S将補は、統合航空統制所長として仙台駐屯地のJTF司令部にいた。『すべては被災地(民)のために』の大方針の下、できることは何でもやる、困難な任務は、最後はヘリ団でやると腹を決めていたと語る。だから、任務そのものへの特別な感想はなかった。また、原子炉へのホウ酸の投下を準備していたから、それより水の方が困難度は低いと考えてもいた。ただし、隊員の被曝がどの程度になるか、過去の実績がなかった。それだけが心配だったともふり返っている。
命令下達! 実行を支えたのは「任務意識」だった
「放射能防護の手段を尽くし、検討した通り、原発上空の存空を努めて至短時間とする飛行要領で放水任務を実施せよ」という命令を第△飛行隊に下したのは、第1輸送ヘリコプター群長である。「机上の検討結果が現実に適応できるかどうか、それだけが不安でした」という。その一方で、「彼らならばできる」という部下への信頼感が大きかった。群長はふり返る。「このような状況で終始我々を支えた心理的な基盤となっていたのは『任務意識』だと思います」。まさに、オレがやらねば誰がやる、これこそが自分の任務なのだ。この任務を果たすことこそが自分そのものなのだという気持ちである。
●3月17日09:14
 モニタリングを任務とする第△△飛行隊のUH-60がJヴィレッジを離陸した。原発上空の放射線量を調べるためである。
 命令が下ったとき、「やるしかない」と第△飛行隊長・T2佐は思った。前日(16日)には第□飛行隊が実施準備をしていた。しかし、モニタリング中の放射線濃度が高く、放水は中止。それでも化学幹部も同乗した結果、各高度における濃度を測定することができた。おかげで実施要領をより詰めていくことが可能になった。
「出ると決まった時、正直なところ、不安もありました。でも、うすうす、自分たちが行くことになるだろう。そうも思っていました。いよいよ、やるとなった以上は、安全・確実にやってやろうと思いました」
 しっかり水を撒きたい、行ったらきちんとやり遂げよう。被曝することは覚悟の上だった。危険も十分承知していた。しかし、この状況の中で、自分をとり囲む、周りとの「絆」の中で、自分がたまたま選ばれたことが重要だった。自衛官は自分の役割を追及する。一人ひとりに、わが国の伝統文化・価値である「役を果たし」、「分を守る」意識が非常に高いからである。これが自分の仕事だという、いわゆる自覚以上のものがそこにある。まさに任務意識とは、たとえ生命の危険という恐怖があろうとも、自衛官として自分の役を果たそうとする強い意志なのだ。
 T2佐が2機の任務機の指揮官になった。1番機機長はF3佐、副操縦士はS2尉、機付長M3曹、その本来のクルーに加えて、同乗したのは整備班先任のE曹長である。
 クルーの中で最年少のM3曹は、「自分が選ばれたという嬉しさがありました。それが誇りになりました。やり遂げることができたのは使命感のおかげです」と正面を見ながら、はっきり答えてくれた。
 まず、名取市の沖合の海からバケット一杯の水をすくった。CH-47用野火消火器材1型というのが、このバンビ・バケットの正式名称である。高さは2.5メートル、機体から約10メートル吊り下げることができる。すくえる水量は約7500リットル。
 水の投下は難しい。被曝を心配して高度を上げれば、それだけ落下距離が大きくなる。水は散らばり、集中的な投下ができない。動きながら撒けば、安全性は高まるだろうが、ポイントに正確に落とすことが難しくなる。
 結局、放射線量を考慮しつつ、効果的な放水ができるギリギリまで高度を下げて、ホバリング移動しながら、放水しようということになった。
●09:48 直上で投下
 UH-60のモニタリング結果を聞いて、最終的な空中放水の実施を決心。放射線量の値は予想の通り。1番機から原発上空に向けて飛行を開始した。原発3号機が目の下に迫り、間もなく上空に達する頃、「投下!」、機長が命じる。後部にはバケットを開くスイッチがある。スティックになっていて、上部にボタンがある。「せっかく来たんだ。2人で落とそう」。整備班先任E曹長は、スイッチにかけたM3曹の手の上に自分の手をしっかりと重ねた。1人だけに責任を負わせるわけにはいかなかったからだ。
 水の投下は2機が各2回ずつ、計4回が行われた。
「任務終了、異常なし」というT飛行隊長の無線の声が届いた。ふだんの飛行任務の時とまったく変わらない声の調子だった。
 それを聞いて、群長は「安心しましたし、彼らをほんとうに頼もしく思いました」という。S将補も「強い使命感の下に、淡々と任務を完遂した部下たちに心から敬意を表しました」と答えてくれた。
自分の任務は映像を送ることだ
●14:46 これが宮城県沖地震か?
 霞目(かすみのめ・仙台市若林区)駐屯地広報室長、K3佐は本部隊舎から道路を隔てた第2教場といわれる建物の中にいた。4月17日の創立記念行事実行委員会の第1回会合の進行をしていた最中のことである。
 実行委員長である方面航空隊副隊長と各部門の責任者およそ20名が集まっていた。3月9日には震度5弱を観測する地震があったために、室内の大方の空気は「また、余震だね」というくらいのものだった。
 誰もが揺れが収まったら会議の再会と思っていた。その矢先、突然の大きな横揺れがあり、収まるどころではない。みな自分の部隊に急いで戻り始めた。外では電柱が激しく揺れ、先を急ぐ隊員の足元もふらついている。K3佐も「これが宮城県沖地震なのかな」と思いつつ、パソコンなどを抱えて本部へもどる。
 本部隊舎では、正面玄関の階段やスロープに大きな亀裂が入った。屋外施設構築の指示を出す隊員、停電に対処するため発動発電機を運ぶ隊員などが動き回っていた。
 頻繁に起こる余震。注意を呼びかける大声の指示が隊舎に響く。広報室の中は壁面の書庫がすべて倒れ、足の踏み場もない。テレビは部屋に残っていた部下の2人の女性自衛官が守っていた。
 倒壊した書庫の下にはカメラのメディアがあった。下にもぐって機材を出させた。被害状況、活動状況の様子の記録を命じた。
 ほどなく雪が降り始めた。あっという間に吹雪になった。
「勘弁してくれよ!という声も聞こえましたが、それでも隊員は吹雪の中、黙々と作業を続けました。すべての隊員が迅速に、時に励まし合いながら活動を始めていました。私も彼らと同じ自衛官であることに喜びを感じた瞬間でした。そして、私にとっても初めての災害派遣活動が始まりました」
●14:52 映像伝送機飛び立つ
 H2尉は、駐機場のHU-1ヘリに向かって走り続けた。映像伝送のフライトのためにやらなければならないことをくり返した。震源地は不明、気象情報が気になる。初めての任務機長を務めるので、ひどく緊張していた。
 離陸のためのチェックをする。副操縦士はR1曹である。同じ飛行隊の3つ後輩だった。
 離陸直前、指揮所から県北部で震度7が観測されたので北進するように命じられる。離陸した直後、上空からは火災や建物の倒壊は見えなかった。
 仙台新港方向に進路を取る。石油コンビナートの煙突から炎が出ていた。これまで一度も見たことがない。延焼などがないか心配したが、地上の指揮所に正確にこの情報を伝えなければならないと思った。
 新港に近づくと、雲底(うんてい)の高度がどんどん下がっていく。他省庁、消防や警察のヘリがあたりに群がっている。見張りをしっかりしないとニアミスを起こすかもしれない。R1曹にも周囲の警戒を厳正にするようにいう。
 北を見ると吹雪のためにさらに天候が悪化している。気象情報を得ようと部隊に無線で問い合わせた。しかし、駐屯地は停電、気象情報を入手するシステムが動いていなかった。
 自分の「見た目判断」で行くしかないと決心。さらに北上したが、吹雪で地表も確認できなくなった。やむなく南下する。
 内陸部からならうまく北上できるかもしれないと考え、利府町付近から前進する。しかし、視界は一向によくならない。利府町のショッピングモールは、一部で壁が剥がれているなどの被害が見えたが、まだ大きな混乱はないように見えた。
●仙台新港から逃げ出す船舶
「仙台市から名取市にかけて偵察し、天候を見て北進を追及せよ」との命令が指揮所から入る。塩釜方向が明るくなっている。北進を再開、しかし、浦戸四島上空で天候はさらに悪化。松島レーダーに連絡を取り、北方面には強いエコーの反応があると教えられる。吹雪だ。北進を断念する。帰投するため旋回すると、今通ってきたばかりの経路が見えなくなっている。このままでは、他省庁のヘリとぶつかる可能性がある。進路をいったん東に取って海の方へ向かう。それでも行きすぎると海上で自分の位置が分からなくなる。陸地へふたたび機首を向けると、雪の合間から新港が見えた。
「蜘蛛(くも)の子を散らすように、たくさんの船舶が沖に出ようとしていました」
 その時は意味が分からなかった。後になって、津波の回避のために沖へ逃げていたのだと確認できた。
●15:55 名取川に津波溯上(そじょう)
 仙台新港を高さ10メートルの津波が襲った。海沿いにある航空自衛隊松島基地も一気に海水につかった。ほぼ同じころ、内陸にある多賀城駐屯地も冠水する。
 仙台市上空で偵察を続けていたH2尉は指揮所から、名取川に津波が溯上するという連絡を受けた。
「名取川沿いの北側を飛行していると津波が溯上しているのを確認しました。正直、私はとんでもないことになったと思いました。海に目を向けると、さらに2波、3波と波頭が白く崩れた津波が迫っています。どうしよう、何もできないと思いました」
 何としても、この状況を、後の活動のために地上に伝えなければならない。そんな中にも、本来、任務に集中しなくてはならないのに、地上に残してきた家族のことが気になった。どうか、無事でいてくれ、助かっていてくれと心の中でつぶやいていた。
●任務との葛藤
 さらに偵察を続ける。津波に襲われる中、高台に避難したり、ビルの屋上に取り残されたりした人々を見た。助けたい、あそこへ降りて、できるだけの人を乗せたいと思った。後部には器材が満載されて、人を乗せる余地などない。しかも、今の任務は偵察なんだ。映像を、きちんとした映像を地上に送り続けること、それが自分の任務なのだ。それでも・・・という葛藤があった。
 次回は、戦う組織の中の「コンボイ」についてお伝えしよう。
(つづく)
(あらき・はじめ)
「荒木さんの書く本だから信用できます」(自衛官)
東日本大震災と自衛隊

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