制服への行動決定権付与に関するQ&A

函館に着陸したソ連空軍ミグ25【いただいたお便り】
留学中の学生(21歳)です。貴メールマガジンの読者です。
最近、防衛庁が防衛省に昇格した事に踏まえて、自衛隊とは何かという事について勉強しております。と、いいますのも、自分も大学4年生になり、将来を見据えなければならず、自衛官も一つの道と考えているが故です。
 僕の最近の研究題材は1976年におきた「ミグ 25事件」です。研究を進めてゆく上で、大きな疑問が浮上しました。
 1、自衛隊のシビリアンコントロールは果たして緊急事態下で、正常に行われるのか?
 2、超法規的行動は、一体どう考えられているのか?
 であります。
 特に1に対しては、非常に大きな問題と認識しております。日本海不審船事件の際、当時総理であった小渕首相は、海自に対し「海上警備行動」を下しております。確かに、当時のシビリアンコントロールとしては最適であったと考えられますが、シビリアンコントロールを追及した場合、国防上の緊急事態に対処するには、ある程度の国防知識が問われて当然の事と思います。
つまり、ミグ25事件の当時のように、政争を国防よりも優先するという、由々しき事態は避けなければならないと存じます。それに、防衛庁長官が短期間で変る事にも、非常に危機感を覚えます。
 超法規的行動についてですが、もろに浮き彫りになったのは「ミグ25事件」ではないかと存じます。つまり、機能しないシビリアンコントロール下にある自衛隊は、国防の緊急事態に際して果たして傍観者となりえていいのだろうか?という事です。現場を直接指揮する者に、ある一定の決定権を持たせてもいいのではないか。と存じます。例えば、夜間に某国の工作員が上陸した場合、これを対処するには、現場の指揮官が決定権を持たない事には、仕方ないのでは?と、思います。
 小銃1発の射撃権利も、総理が持っているのでは、自衛隊員が何人も殺されてから、射撃許可が下りるのでは、日本政府はどちらの味方なのかと、問いたくなります。現に、現代戦に於いて、一瞬の迷いで大損害に繋がる事もありますので、やはり、ある一定の超法規的行動を、容認すべきではないか?と、思います。さもなければ、自衛隊は、國を守れない。と、痛感いたしますが、これは、浅はかな考えでしょうか?
 長文乱語、恐縮であります。
(一匹若造 21歳)
●【ヨーソロ様のお返事】
ご質問は、事案発生の際に政府の命令よりも先に制服が行動を起こす決定権を持たせること、を言っておられるように思います。
1.徐々に現実的、合理的に・・・
現在でも特定の条件があれば、現場の判断だけで行動できます。典型的な例は「近傍火災」(部隊の近所の火事)時の災害派遣です。このように極めて限定されていますが、従来の非常識な制約についてはこれ迄でも徐々に権限が下位に委譲されてきました。
北鮮などから飛来する弾道ミサイルを防衛するためのミサイル発射権限についても、最近の状況は詳らかではありませんが、これも徐々に現実的、合理的になっていることでしょう。
発砲の件は、国内ですら人質犯人に向かう警察機動隊が自由に発砲できるわけでないのと同様です。特定の状況下では現在でも可能です。イラク派遣の隊員が、東京の許可がなければ如何なる場合も発砲できない、ということではありません。
もし必要な権限が充分に降ろされていないとすれば、それはつまるところ60年以上前の敗戦(とその後の偏向教育)が尾を引いて、国民多数の「制服に対する信頼感」が未だ充分に醸成されていない、ということでしょう。残念なことです。
「どの範囲の権限」が「どの程度の下位まで」降ろされるか、はその事案の「発生する可能性」、「発生の影響の重大性」、「対処の可能性」等に依存します。つまり事前に想定できる事案で、誰が首相であっても「GO!」としか言い得ないようなケースでは上の例のように既に権限が現場に降ろされています。
2.問題は・・・
問題は、対処法が「論議になる」「賛否の分かれる」ような事案です。
これは政治が高度に腹芸であることを考えれば、「安易に任せられない」のも無理からぬところです。ここから先は、国民の(及びその代表たる議会や政府の)リスク感知能力と覚悟の問題です。
例えば米国です。
世論を気にする民主主義国家の宿命として世論が激昂せねば開戦できないことから世論操作や秘密工作による「やらせ」が多く用いられ、軍部や警察に勝手に(つまり職務に忠実に)動かれては「話がブチ壊しになる」ため、ストップが掛けられるようなことも多かったようです。
米西戦争のメイン号爆破、WW1のルシタニア号撃沈やチンメルマン暗号事件、WW2の真珠湾攻撃、ベトナム戦争のトンキン湾事件、911事件、等々、どれがヤラセかオトボケか、はたまた本当のハプニングなのか、疑念の残ることばかりです。
つまり理性的には開戦已むなしの場合ですら、民主主義故に政府が国民を騙さねばならないのが米国の実情です。日本も世論を気にするという点では基本的に同じでしょう。
3.歴史の教訓
歴史の教訓からすると、情報の伝達速度向上に伴って、武力行動開始に関する軍部の独断専行はむしろ害がある(場合が多い)と考えられるようになりました。その理由は、開戦は容易だが終戦は困難、戦争の無限界性、核兵器の存在、などがあるからです。
一方、通信情報技術の進歩は現場と国家最高司令部の距離を縮めました。キューバ事件のときケネディ大統領が現場の駆逐艦の艦長に電話で直接に指示した話は有名ですが、現在では相当に際どい状況下でも最高指揮官が「交戦規定」を駆使することにより、かなり細部の武力行動まで直接に指示できる(即ち、最高指揮官が直接に状況を判断し、決心し、責任を負う)体制が出来ています。
「超法規的措置」は我が国の現状からすれば必須かもしれませんが、それは国民から選ばれた政治家である最高指揮官が決心することであって、制服が独断専行で行うべきではありません。これは逃げではなく、歴史の教訓です。
無論、政治家が決定するのは総枠措置であって、一度それが出されれば現場ではその範囲内で法に定められていない措置も行うようになるでしょう。これはダッカ空港事件のとき、囚人の釈放を首相が決め法務省の刑吏が実行したのと同じです。
4.制服にできること
結局、安全保障には国民と政治家の成熟度がモロに試されるわけで、制服サイドはひたすら何が起きても、何を命ぜられても、(法に定めがあろうがなかろうが)対応できるようひたすら準備する「有事即応」態勢維持しかないわけです。
追伸
最後に「秘密工作員の上陸」への対処は警察と海上保安庁が正面になって機能しており、自衛隊は情報交換のレベルで相当に協力していますし、命令があれば実兵力的な協力も可能です。
以上、ヨーソロの管見でした。

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